体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのスポ』10月号 実践のひろばを読む

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,『たのしい体育・スポーツ』2014年10月号の実践のひろばを読みます。

奥田直和さんの「スポーツを人生の伴奏に」です。

では,どうぞ。

 

『たのスポ』は,読んでいろいろ考えることがあると書きやすいが,なかなかいつもそういうわけにはいかない。

論文を批評することや,反対意見を述べることを目的としていないので,書きにくいと思うものもある。

興味や関心が違うので,読んでも「ふ~ん。なるほど。」と思うことはあっても,書こうとは思わないものもある。

また,よくわからないので,トンチンカンなことを書いてはいけないと思って書けないこともある。

 

とりあえず,順番に読んでいこうとはするものの,どうしても書けずに飛ばしてしまうものがある。

かつても,外部の方が書かれたものを読んで,「う~ん。学校を一括りにして,批判するのはどうか」と思ったことがある。

自分たちの活動はよくて,学校はよくないというの?

そうなると,つい反論を試みたくなるのだが,そんな売られていない喧嘩を買うという集団的自衛権の行使のようなことはしたくないので,そういう論文は取り上げない。

 

そういう意味では,奥田さんの書かれているものは,それはそれで取り上げなくてもいいかなと思ったりもした。

 

でも,奥田さんの実践は,自分自身の運動文化実践であり,そういった観点で書かれている文章は少ない。

奥田さんの次に出てくる福井の吉田さんは,ソフトボールで学生日本一になったそうだ。

でも,それは過去の運動文化実践である。

昨日取り上げた早川さんも,自身がスポーツをしていると云うことを,ある人から聞いたことがある。

しかし,早川さんはそのことを書いているわけではない。

だから,敢えて奥田さんの実践を取り上げて書いてみることにする。

 

奥田さんがバスケットボール(以下,バスケ)が好きだと云うことは,これまでにも知っていた。

体育同志会の基礎技術論からすると,やや異端な「やんちゃバスケ」の提唱者でもある。

やんちゃバスケは,ドリブル突破大いにありなのだ。

それは,自分の経験から来るのだろう。

そして,「バスケはそういうものだからだ」ともどこかで云っていた。

 

なるほど,アメリカにおけるバスケは,NBAに代表されるように,ショー的な側面が強い。

しかし,もともとネイスミスが作ったときには,ドリブルはなかった。

というよりも,彼は「体育」としてバスケを考案したのだ。

この体育というのは,私たちが表象するものとは違ったものであろうことは十分に予想されるのであるが,でも今のショー的なバスケとは違うことも十分に予想される。

 

それが,YMCAから一人歩きをしたときに,いわゆるアメリカ的な価値付けを付与されて,今のような形になったのだろう。

 

さて,奥田さんとバスケの関わりで印象深いのが,「寝たきりの末の高校留年」したこと,そして「医師からの『バスケはもう無理』という宣告」をうけていたことである。

スポーツをしすぎて,そこまで体を悪くすると云うのは珍しいのではないか。

 

しかし,そこからまたバスケをやることにしたのもすごいし,「スポーツを人生の伴走にする」と考えるようになったのもすごいと思う。

「スポーツは健康に良いとは,一概には言えません」とあるが,本当にその通りだ。

僕も先日,30キロ走をやったが,そのあと体の調子が悪い。

足が重いとかだけではなく,全身のだるさがとれない。

やはり,やりすぎなのだろうか。

というか,体の手入れが必要なのだろう。

 

先にも述べたし,表紙の写真にあるように,奥田さんは現役のプレーヤーだ。

そして,そのチームには10代から60代までがいるという。

だから,表紙の写真のように,親子三代でコートにたつということが可能になる。

なんだかうらやましい。

 

今,スポーツをしたいと思ってもなかなか難しい。

思ったときにやろうと思ってもできないから,前もって役所に並ぶ必要がある。

そういうことを嫌がらずにやってくれる人がいることは,チームの強みになる。

体育同志会の学力のうちの「組織性」ではないが,民主的な運営もできるようにならなければ,サークル活動は維持していくのは難しい。

 

僕は高校の時に,訳あって社会人のサッカーチームに入っていた。

でも陸上部員だった(この「訳」はまたどこかで)。

サッカーの練習は週に2回,試合は土日に行われる。

その活動も,サッカー好きのマネージャーのような人がいて,毎回電話で誘ってくれて,鶴舞公園をおさえてくれて,登録などもやってくれていた。

試合の時は配車もしてくれて,僕も高校卒業まで続けることができた。

 

その人がやってくれるうちはいいのだが,次にその役をやる人が出てこないと,チームの活動そのものが亡くなる危機に直面することになる。

その組織性の低下が体育同志会に,というか,組合活動やサークル活動にある。

各支部で若手が入らないのは,オルグ活動をやらないという(僕も含めた)ベテラン側の課題と,構造的につながりを断ち切られている(僕も含めた)若い世代の課題の両方があるだろう。

 

ちょうど,『若者よ,マルクスを読もう Ⅱ』(内田樹×石川康宏,かもがわ出版)に書かれていることが,シンクロする(1部の2,45-83頁ぐらい)。

取り上げないが,田中委員長の論考の最後(主体者像)もそういったことを言わんとしているような気がするのだが。

 

ところで,昨日の早川さんの文章ではないが,「する」「みる」「ささえる」をそれぞれに機能分担するのではなく,3つの機能を一定のバランスで担うことが求められる。

しかし,支えることがベテランの役割だとしたら,おそらくその組織は長いことは続かないだろう。

ベテランだってプレーの楽しさに触れながらではないと,支える活動だってやっていけないだろう。

文章を読む限り,奥田さんのチームのベテランはそれができている。

 

一方,普段支えられることに慣れていても,支えることに慣れていない若者は,明日からお前がやれといわれれば,「なんでおれが?」と思ってしまうのではないか。

だから,いつでもベテランと云われる人たちは,一定の期間支える仕事をしたら,すぐ下の世代にバトンタッチする必要があるのだろう。

 

それが組織のため,若者のためになるのだが,それをしてこなかったために,今,ベテランと若手しかいないサークルは,若い人がいきなり支えることをしなければならないのだ。

「それをしてこなかった」というのは,したくてもできなかったという意味も含まれる。

だって,僕の世代の教員は圧倒的に少ないから。

 

僕の脆弱な組織論をここで展開したいわけではないので,このへんでやめる。

 

奥田さん以外でも,運動文化論にもとづく体育授業を実践している人たちの,運動文化実践も聞いてみたいものだ。

僕は,ランニングをする。

そして,そのことは,これからも書き続ける。

村上春樹が文章を書くように。

ノーベル文学賞は残念でした。

 

 

 

 

 

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