体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのスポ』10月号 早川特別寄稿を読む

こんにちは。石田智巳です。

 

今日も,『たのしい体育・スポーツ』2014年10月号を読みます。

そのなかの,早川武彦さん「『見るスポーツ』の価値を問う」(18-21頁)を読みます。

いろいろ勉強になりますね。

では,どうぞ。

 

これを読んでいる今は10月であるが,この号の原稿が書かれたのはワールドカップのころで,やや時間差を感じる。

あれは,6月だったか,7月だったかも憶えていない。

前期の終わりに近かったという記憶はあるから,7月なのだろう。

 

僕がW-cupサッカーを真剣に見ていたのは,1982年のことだ。

そのときは,マラドーナが鮮烈なデビューをする予感が誰にもあったが,空振りに終わった。

フランスにはプラティニがいて,ドイツにはルンメニゲや後に日本でもプレーをしたリトバルスキが,ブラジルにはジーコソクラテスなどがいた。

カメルーンが出場したが,雑誌を見ると,カメルーン選手は全員「年齢不詳」となっていた。

キーパーの名前は,Nコノ(よく覚えていない)。

子音のないNが最初に来る名前だ。

彼の名前を,ンコノかウ○コノと読んでいたように記憶しているが,まだ外国語を習い始めたばかりの少年には,日本語で読んで「変な名前」とおもったわけだ。

 

アルゼンチンは,対戦相手は忘れたが引き分けでスタートした。

マラドーナは,イタリアのジェンティーレに押さえ込まれて不発。

そのイタリアは,八百長だかでいなかったロッシが得点王になって優勝した。

 

この大会の僕のベストゲームは,準決勝での西ドイツとフランスの対戦だ。

1対1で延長に入り,フランスが2点を取る。

ところが,ここからドイツが2点を奪う。

しかも,ドイツの3点目はクラウス・フィッシャーのオーバーヘッドキックでゴール。

すごいと思ったのは,彼はすでにアディダスのシューズの名前になっていたことだ。

 

ところが,PK戦となって,ドイツはシュティーリケというスイーパーの選手がはずしてしまう。

そこで,うなだれる。

しかし,キーパーのシューマッハが相手のシュートをとめて,ドイツが勝ち抜いたのだ。

フランスにはシスという選手もいたが,綴りはSIXだった。

意味はわからなかった。

 

何が言いたいのかというと,30年前の大会のことは,事細かに覚えているのに,ほんの数ヶ月前の大会の優勝国を憶えていないと云うことである。

短期記憶が長期記憶化されないというのか,年をとったというのか,興味がなくなったというのか。

 

それで,僕も全然マスコミに踊らされていたと云うことだが,このW-cupで日本が2次リーグに行くのは当たり前と思っていた。

でも,ランキングでは,日本は予選4チームのなかでダントツでビリ。

「一億層(総???)皮算用」(19頁)だった。

国民が「虎と狸の皮ざんす」というわけだ。

何それ?

 

で,こういう状況(過度な期待)が生み出されるのは,スポーツは基本的に「する」ものだという考え方によると早川さんは云う。

そして,かつて「スポーツにおける『する・見る』は車の両輪ではなく,コインの裏腹の関係である」と述べていたという(早川,1995)。

 

批評力(みる)が萎えると,「する」スポーツは暴走する。

それは,過度な練習,暴力,薬物などにあらわれる。

「する」スポーツの経験(つらさ,楽しさなど)があることで,賭博,見世物,やらせに走ることや,過度な期待を持つこともない。

 

「『する』と『みる』のスポーツの関係性は極めて重要である。この両者の関係について論じているものは少ない」(20頁)と,早川さんは云う。

これについて,かつて学校体育の役割としての「する」,「みる」について述べたことがある。

これについては,後で述べる。

 

ここで,早川さんは,「みるスポーツ」も「するスポーツ」もスポーツ享受の1つのスタイルであって,主体の楽しみ方の問題であるという。

まさにその通り。

しかし,あたかも,「みるスポーツ」や「するスポーツ」が存在するかのように捉える傾向があるところに問題があるという。

それもそうだ。

 

そして,「する」「みる」にくわえて,「支えるスポーツ」という機能があること,この3つがバラバラに切りはなされていては,「スポーツを楽しみ,スポーツを豊かにすることにはならない」と指摘する。

 

この議論は,まさに昨日の平田論考を読む中で展開された問題である。

体育同志会では,「うまくなること」(する),「わかること,鑑賞など」(みる)と「組織性」や「社会性」(支える,営む)として,いわゆる「技術・組織・社会」を学力として定義してきた。

そして,今では「3ともモデル(ともに上手くなる,ともに楽しみ競い合う,ともに意味を問い直す」という主張となっている。

そして,それらを昨日も書いたが,どれかを身につけるのではなく,三位一体となった学習が求められることになる。

 

最後の「見るスポーツの効用」は,読んでもらうしかないが,僕が以前報告した「する」「みる」に関わる内容は以下のようだ。

 

これは,中村敏雄さんの「うまくしてどうする」とも関わったことである。

中村さんは,上手くなっても,体力をつけても,夏休みの間やらないと元に戻るという例を引いて,そういったものをなぜやらないといけないのかという問い方をした。

 

このときに,なんで上手くなる必要があるのかへの共通理解がないのかと思って,自分なりに考えてみた。

そして,次のように報告した。

 

多くの子どもは,教師が作り出す教材世界を通じて,外の文化的世界を見る。

つまり,サッカーを授業でしかやったことがなければ,その授業でやった水準でしか,W-cupサッカーの内容も見ることはできない。

当然,レベルが上がれば,同じテレビの画面(あるいはスタジアム)で展開されているサッカーを見ても,見え方が違うのだ。

 

それは,個人という点の動き,味方選手との関係,相手との関係,局面での動き,全体での動き,時間との関係やゲームプランにまで関わっている。

だから,やることでわかることや,上手くなることで見えてくる世界があって,それはさらにやりたいという意欲や,やらないでもスポーツの見え方に関わってくるのである。

 

だから,教師が用意する教材がショボければ,見える世界もショボくなるのである。

しかし,授業では,選手がやるような施設,設備や時間などの条件は整っていない。

だから,何を取り上げて,何を切り捨て(捨象)するのかが問われなければならないのである。

 

ハーフコートのバスケは,ゴール前の攻防のみを「切り取り」そこに集中できる。

しかし,コートを往復する体力や,速攻という戦術行動は切り捨てたことになり,同様に,その部分の戦術への認識も捨象することになる。

 

僕は,ソフトバレーを6人で,しかもキャッチありでやるが,これも単にスパイクを打つためだけではない。

複雑な戦術行動を実際に体験させる=選手がやるような(ただし,ずいぶん昔の)戦術行動をゲームで看取ることができるようになるという上位の目標が存在する。

だから,無条件に上手くすると云うわけではない。

固いボールを指で弾くとか,高いネットの上からスパイクとかは,捨象する。

そのことで,お叱りを受けたこともあるが。

 

体育同志会のなかでも,スポーツをどう見るのか,どう操作するのかは一枚岩ではない。

だから,楽しいのだ。

 

 

 

 

 

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