体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのスポ』10月号 平田論考を読む2

こんにちは。石田智巳です。

 

日曜日に平田さんの論考「運動文化論の中でスポーツをどう語ってきたか」(『たのしい体育・スポーツ』2014年10月号)を読んで書いていたら,半分もいかずに終わってしまいました。

平田さんの射程は広く,そのため,所々で引っかかってしまいます。

今日はその続きですが,今日で終わらせます。

でないと,一冊読むのにそれこそ一ヶ月かかってしまいます。

では,どうぞ。

 

2.社会の視座からの運動文化論

 

体育同志会ができる1955年の10年後,1965年に新体連(後に,新スポ連)ができる。

ちょうど,運動文化論が確立していく頃のことである。

そこでは,「スポーツは万人の権利である」ことをうたった。

平田さんによれば,「国民運動文化の創造とその体制づくりという同志会の理念を社会化したもの」だ(10ページ下段)。

その後,70年代のヨーロッパ,あるいはユネスコの議論などを経て,体育同志会でもスポーツ権論が盛んになる。

 

あわせて,1976~77年頃からいわゆる体育科教育の学力論が議論される。

これは,坂元忠芳さんと藤岡信勝さんの論争の影響もある。

単純化して云えば,科学的な教育内容を身につけるだけで学力といっていいのか,そこに人格的な要素も必要になるのではないかという坂元さんの言い方があった。

 

僕はこの議論が直接体育同志会の学力論に影響を与えたのかはわからないが,同志会の内部でも,とらえ方が分かれたような気がする。

ひとつは,「できる,わかる,分かち伝える」というように,運動技術(と認識)をグループ学習で学ぶといういいかたがなされた。

技術(認識)+集団,これは主流の考え方である。

 

もう一つは,スポーツ権のうち,とりわけ社会権を意識した,伊藤高弘さんのスポーツの三層構造(プレイ場面,組織,条件),「不自由の自覚」,そして草深さんの社会的統治能力などプレイ場面以外への着目が,スポーツ権の,そして,学力の内実として語られた。

 

学力論では,このような提起はなされたが,残念ながらというのかスポーツ権を意識した実践は少ないといわなければならない。

たとえば,9月に新宿で『たのスポ』連載の編集会議を持ったときも,社会権を意識した実践は,鹿児島の村末さんの「プレイの向こう側に迫る授業の試み」(『続体育の実験的実践』,創文企画,1991)ぐらいしか思い浮かばなかったのだ。

 

プレイがしたいという享受権を行使しようとしても,条件が整っていないときに,どうやって行政に働きかけて実現するのか,ただ働きかけるだけではなくて,どんな知恵をつけないといけないのか。

ここにまで迫っていくのは難しい。

学級の中の合意形成だけではすまないのだ。

 

でも,ここで提起された,「技術・組織・社会」が今の「3ともモデル(ともにうまくなる,ともに楽しみ競い合う,ともに意味を問い直す」に対応している。

ただ,「ともに意味を問い直す」が,学び方とスポーツ教養になっており,社会権を教える内容がやや不明なところに現在の課題がある。

 

いずれにしても,「社会(地域)と学校をつなぐ学力論として整理された運動文化論」という理解なのだ(11頁)。

そして,「スポーツのプレイに注目するだけでなく,そのプレイを成り立たせている,組織やその社会的条件を構造的に把握することで,スポーツの持つ人間にとっての価値(意味)やその可能性を探ろうと考えた」のである(11頁下段)。

 

3.運動文化論の今日的立脚点-とスポーツ基本法

 

平田さんは,体育同志会では,スポーツと運動文化をどう見るのかという議論をここで展開する。

「スポーツをどう語ってきたのか」の議論の難しいのは,おそらくここにある。

運動文化とスポーツは何が違うのか。

単純にスポーツと武道や舞踊などをあわせた概念とするのか,スポーツを批判してできる新たな文化のことをいうのか。

平田さんは,そこにスポーツ基本法で示されたスポーツの概念と,同志会の運動文化概念を重ねてみる。

 

スポーツをどう見るのか。

もともと丹下さんは,スポーツが持つ偉大な力を,常に論のよりどころにしていた。

偉大な力を持つが,エリートにとっても,大衆にとっても満足いく状況となっていない。

だから,国民運動文化とその体制の創造を訴えた。

中村さんは,近代スポーツの陰の側面に光を当てた(矛盾した言い方だが)。

 

ただ,スポーツを主語においてスポーツが悪いと語るのではなく,スポーツをハンドルする人がいて,スポーツを悪くしていくと語ることが必要になると思う。

そして,運動文化の体制づくりは,やはり対抗の体制を立てるという考え方もできるが,今のスポーツの機構や組織に入り込んで,よりよくするという考え方もあわせて取りたい。

そして,そのための学力は何かを考えるのだ。

 

最後の議論では,スポーツ基本法の問題点を同志会の議論に絡めて二つ提出する。

一つは,競技スポーツと生涯スポーツの二分論である。

ここでは,かつての「高度化と大衆化の統一の議論」に対応させる。

 

もう一つは,スポーツへの関わり方としての「する」「観る」「支える」といわれるもののとらえ方である。

単純に,機能分担するというわけではあるまいが,スポーツの機能をスポーツの構造(三層構造)に乗せて考える必要があるという。

 

体育同志会的には,すること,観ること(認識,鑑賞やリテラシー),支えること(条件にかかる要求,あるいは変革)などが学力に,あるいは「3ともモデル」に示されている。

この3つを機能分担することなく,一人一人の学力としていかに形成するのかが実践的な議論になるだろう。

 

そして,高度化と大衆化の統一といった場合,やはり問われるのはそもそもスポーツを悪とみるのか,そうではないと見るのかだと思うのだ。

悪と見てしまうと,これを壊して新しい運動文化をつくることが課題となり,高度化は大衆化の中に入り込み,大衆化に一元化されることになる。

しかし,壊すのは難しいから,結局,二元論のまま。

もっと悪く云えば,大衆スポーツの中に高度な技術を身につけた人と,そうでない人の二元論が生まれてしまう。

 

スポーツを悪でないと見るならば,大衆の側をよりうまくすることで統一することが課題となる。

平田さんの言い方は,あっちかこっちかという議論ではなく,先日僕が書いたように,多様な楽しみ方,関わり方を認めるということだ。

いずれにしても,そのために,国民大衆のスポーツ要求を満たす条件づくりも必要になる。

 

それにしても,スケールの大きな論考だった。

来年の体育同志会の60周年に向けて必読文献の一つだ。

 

 

 

 

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