体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのしい体育・スポーツ』10月号が届きました。

 こんにちは。石田智巳です。

 

10月1日に『たのしい体育・スポーツ』10月号が届きました。

そのときには,とりあえず封筒から出してチラ見して,本棚に置きました。

忙しくて,じっくり読めないからです。

でも,今日はもう4日です。

古くなるといけないので,読むことにします。

では,どうぞ。

 

『たのスポ』が届いた。

「忙しくて,じっくり読めない」と書いたが,読むにはやや重たいと感じていた。

特集は「スポーツのあり方について考える」である。

「スポーツのあり方」というのは,「こうあるべきだ」というものがあるということだろうか。

平田さんの文章の最初に,遅疑逡巡が見られるが,全く同じ思いを持つ(今日は内容には入らない)。

誰が誰にあり方を語るのか。

その際に,同志会は一枚岩なのか。

 

当為の「あり方」と,そうではない現実の「ありよう」に出会ったときに,私たちはどうするのか。

私たちは,子どもに何をどう教えるのか。

そんなことを思いながら,表紙を見ると,奥田さんが跳んでいる。

 

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後ろに「親・子・孫,三代で楽しんでいるバスケットボール」 と書かれている。

 

表紙をめくる。

パサ。

目次を期待してめくると,今月の授業。

先月もそうだった。

 

「タッチゲーム(ボール)っておもしろい」

そういえば,東京の児玉さんだったかが,かつてこのゲームを紹介していたような気がする。

それを平田さんが批評していたような気もするが,曖昧。

 

表記が「タッチゲーム(ボール)」となっている。

「タッチボール」と「タッチゲーム」という言い方があるということなのだろう。

どっちかに統一すればいいのに,と思いながら読む。

ラグビーやアメフトのような陣取りゲームで,スタートも相手側に投げ入れるというやり方だ。

でも,ワンバウンドあり,オフサイド無しのバスケ型ゲームだ。

 

これを「タッチゲーム」と呼ぶならば,ボールがなくて,タッチしようとする(タッチされないようにする)ことが目的のようにみえる。

「タッチボール」では,ボールにタッチすることが目的のように思われてしまうのか?

う~ん。

 

「バスケとラグビー」だから,「ラグバス」・・・ではダメだから,「バスラグ」は?

あるいは,「タッチラグビー」ではどうか?

これでは,「タグ・ラグビー」のタグをタッチに変えただけで,なんだか後退したようだ。

じゃあ,「タッチアメフト」?

これでは,「タッチフットボール」と間違われる。

「タッチバスケ」としても,バスケット(ゴール)はないし。

なるほど,難しい。

だったら,小平ゲームとかかな。

いや,タッチボールがいいかな。

 

めくると,目次に。

でも,目次とは書いていない。

CONTENTS とある。

英語だ。

 

これはちょっとまずいですね。

「今月の授業」の内容が,「先月の授業」になっている。

平田さんの論考のタイトルに誤りがある。

 

「私たちの授業研究」までの書き手に,かなりベテランの方が多い。

なかなか重たい内容だ。

確かに特集が「スポーツのあり方」だから,若い小学校の教員とかでは書きにくいのかもしれない。

しかし,ベテランが力を込めて書いたものが並ぶと,読み手はつらくなるのも事実。

 

僕は,実践記録が読みたいのだが。

とはいえ,編集方針があるし,圧力をかけるわけにはいかない。

ただ,先月も「武道」の特集であったため,今月とやや似たような感じになっている。

 

「かぜ」を読む。

「健康ブームや商業ベースで用意された『スポーツ』の場の横行によって『スポーツ』が持つ本来的な良さを,誰もが享受できていない現状があるのではないでしょうか」(7頁)。

「本来的な良さ」というのがくせ者。

 

「スポーツをどうとらえ,どう向き合うかを考えることが,スポーツの持つ人間にとっての価値(意味)やその可能性を探ることにつながることだとと思う」。

その通りだよな。

僕も教育法の授業の最初の時間には,体育で行うスポーツについて考えることをしている。

それは,体育観やスポーツ観を問うことでもある。

 

「体力つくり」体育を推進する人は,スポーツを発達刺激として捉える。

「楽しい体育論」は,Play論に立脚するから,個々の楽しみを強調する。

「スポーツ教育論」は,社会機能法的に,スポーツの良き面を捉えて,人格形成に役立つとする。

そして,運動文化論は,スポーツの良い面と同時によろしくない面にも目を向けて,それをよりよい方向に発展させようとする。

社会変革の側面を持つ。

 

体育という枠組みを外しても,スポーツにはいろいろな期待が寄せられる。

健康,仲間作り,競技志向,気晴らし,あるいは,やらない,などである。

学生は,右肩上がりのスポーツ需要期なので,多くの場合,競技志向であり,その価値を体育授業に持ち込んでも当たり前と思っている。

年とったらそんな競技一辺倒のスポーツはしないよ。

 

多様なスポーツ観や体育観があるわけで,スポーツを絶対的なものと見る必要はない。

また,スポーツを主語にして語る必要もない。

そういう意味で,スポーツのあり方を考えるのであるが,やはり誰を主語にするのかで難しい。

 

前にも書いたことであるが,「たのスポ」の実践を紹介するのが僕の仕事だと思っている。

そのため,他人の論考について批評するつもりはない。

先月の武道のところでも,坂上さんが長野の小山さんの武道の考え方を紹介しながら論を展開していた。

それはそれで興味深く読んだ。

が,そのことは書かなかった。

同様に,内田良,溝口紀子両氏の寄稿も,興味深く読んだが,あえて書かなかった。

 

しかし,それだとこのブログの意味がなくなるので,重い腰を上げるかどうか。

読んでつまらないことしか書けなかったら,やめることにするかな。

歯切れが悪い。

 

今日はこれから入試。

いつものことだが,何の入試か,僕の役割は何か,などは行ってみないとわからない。

帰りの電車で読もう。 

 

 

 

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