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体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

言語構造と上下関係の話 後編

教育

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,昨日の前編の続きです。

とはいえ,昨日書こうと思ったことを書いていたら,当初の想定とは違う結論になってしまいました。

そのため,もともとボンヤリ考えていたことを今日は書こうと思ったのですが,何が書きたかったのかを忘れてしまいました。

そもそも書きたかったことがあったのかどうかも怪しいです。

でも,とりあえず記憶の糸をたぐり寄せて書いてみます。

では,どうぞ。

 

昨日は,山田昌弘さんの新聞記事を読んだ。

そこには,敬語や敬称という日本語独特の言語構造が,転職を難しくしているということ,それに対して,山田さんが「日本でも,呼び方の改革を考える必要があるかもしれない」と結んだことに反応して書いた。

 

「おいおい。そんな簡単なことではないだろう」と思ったのだ。

 

それは,小手先の呼び名や呼び方の問題ではなく,日本語の構造が日本人の思考を規定しているし,その思考がさらに日本語の構造へ影響を及ぼしていくというように,簡単に逃れられるものではない。

 

当然,上下関係はどこにでもある。

ただ,日本の社会の上下関係は特殊なのかもしれない。

それは,言葉に表れるからであるが,ペコペコお辞儀するという行為にも表れている。

「ペコペコペコペコ,下げるためだけに頭はついてるわけじゃない」(『くたばれ!無責任』,クレージーキャッツ)。

 

昔,『ローマの休日』をはじめて見たときに,グレゴリー・ペック扮する新聞記者が,上司とやりとりするシーンを見て,「ふ~ん。こんなものか」と思ったことを思い出す。

関係が違うのだ。

身分的には上司と部下なのだが,対等というのか,別にへりくだっていない。

 

この対等平等というのが,「古き良きアメリカン」だという話をどこかで読んだ。

パラパラ。

あった。

小澤征爾×村上春樹小澤征爾さんと,音楽について話をする』(新潮社,2011)の56ページ以下。

 

小澤征爾さんは,若い頃にレナード・バーンスタインのアシスタントをやっていたことがある。

バーンスタインは天才肌の音楽家であり,指揮者であった。

音楽は一流だし,ハーヴァード大学で講演するととても立派な講演もする。

つまりすぐれた教育者であるという。

しかし,オーケストラの教育となると話は別だったようだ。

つまり,「オーケストラに対しては『教える』という態度ではぜんぜんない」のだ。

 

そして,それは,アシスタントの指揮者にも同じような態度だったという。

「僕らは彼のことを先生だと思っているし,教わりたいと思っているんです。ところがレニーに言わせると,そうじゃない。君たちは僕のコリーグ(同僚)だっていうわけ。だから何か気がついたことがあったら,自分にも注意してくれ,と。君たちにも注意するけど,私にも注意してもらいたいと。そういうアメリカ人の,良きアメリカ人の平等志向みたいなのがありました。システムの中ではいちおうボスということにはなっているけれど,自分は先生じゃないんだよ,ということ」(56-57頁)。

 

で,うまくいっていたのかというと,そうでもなかったようである。

そうなると,自分の考える音楽を作るのに時間がかかってしまうし,「楽団員が指揮者に向かって怒って,くってかかるような事態」も出てくるようだ。

 

ところが,これもまたすごいことだが,小澤さんは帝王カラヤンのもとでもアシスタントをしていたのだ。

そして,カラヤンのオーケストラの仕込み方は全く違ったそうだ。

「先生は他人の意見なんてものはまず聞きません。もし自分の求めている音と,オーケストラの出す音とが違っていたら,何があろうとオーケストラの方が悪い。望む音が出てくるまで何度でもやらせる」(59ページ)。

 

さて,教師は子どもとどこかで上下関係を保ちつつも,対等なんだという意識でいたいと思うのではないか。

ゼロ・トレランスとかを現場が支持するのは,「対等平等ではない」という現れかもしれないが。

それだけ現場が厳しいと云うことなのだろう。

しかし,民主的な教育を大切にしようとする少なくない教師は,対等という考えを持っているように思えるのだ。

実践できているかどうかは別にして。

 

かつて書いたことではあるが,金八先生の第一話では,金八先生が赴任した初日に,「みんなと一緒に勉強していこう」というと,生徒が「一緒に勉強しようだって」と驚いたように,バカにしたように云うシーンがある。

金八先生は,全生研の坂本光男さんがモデルなのだが,おそらく,先生が生徒に向かって「一緒に勉強しよう」と云うのは,1979年当時はまだ一般的ではなかったと思うのだ。

 

そして,日本語には上下関係を表す言葉があるので,教師という上の立場の人は,子どもという下の立場のものに対して,対等平等という意識を持ちにくいのではないかとも思うのだ。

正しい敬語の使い方を教える立場にあるわけだし,成績をつけるという立場でもある。

それでいて対等というのは矛盾ともいえる。

 

さらに,日本語の上下をあらわす言語構造でなくとも,バーンスタインの例が示すように,非対称的な関係において,対等平等だといって実践しても,それはそれで難しいのだ。

 

もともと子どもの教育に関しては,日本人よりもアメリカ人の方が厳しいのだ。

それは,アダムとイブの話ではないが性悪説を採用するからだ。

体罰だって,プロテスタントの教育では容認されていた(今はそうでもないらしい)。

 

だからといって,カラヤンのように主人が誰かをはっきりわからせることには抵抗感があるし。

 

どうして難しいのだろうか。

僕もつい上から目線で云ってしまい,そして反省する。

佐々木賢太郎さんも,「教師が自己変革して,子どもの間に飛び込んでいかなければならない」と述べていた。

 

うまく実践している人は,おそらく「自分には自己変革が必要だ」とは思っていないだろうし,自分の実践はうまくいっているとも思っていないのだろう。

そんなことで悩まないし,そんなことを自慢したりもしない。

いつも通り。

 

健康を追い求めて躍起になっている人,ピリピリしている人よりも,健康のことは考えなくても良い人の方が,健康そうだというのと同じ。

 

ブルデューのいうような,教養(文化資本)のない人が追い求めて物知りになろうと焦るのに対して,教養のある人はガツガツせずに教養があふれ出ているのと同じ。

 

でも,できる努力をするしかない。

少なくとも,そのほうがお互いに気持ちよく過ごせるから。

 

ところで,対等平等というのは,日本では戦後の話だとすれば,それもまたアメリカから輸入した考え方なのだろうか。

そうだとすれば,やはりアメリカの傘の下の対等平等になるのか。

 

 

 

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