体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

言語構造と上下関係の話 前編

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,新聞記事を読んで考えたことを書きます。

上下関係が日本語に由来すること,そして,対等平等の難しさについてです。

とはいえ,書いていたら,例によって前半だけで終わりました。

では,どうぞ。

 

9月24日の毎日新聞のオピニオンに目がとまる。

「そこが聞きたい 〔伝統との向き合い方〕」で,インタビュイーは大相撲の琴欧洲親方。

そこには大きな見出しで,「もっと理論的な稽古に」とある。

ブルガリア出身の元力士から見ると,日本の大相撲界には不思議なこともあったのだろう。

とか何とか思いながら,そのときは時間がなかったので,そのページを抜き取り,書斎に置いておいた。

 

僕は整理が悪いので,適当に置いておくと,新聞がたまってしまう。

時々まとめて読み,読んだら捨てるか,気になったら「Evernote」というタブレットのアプリに写真を撮って保存しておく。

 

この「抜き取り」をようやく手にとって読もうとするが,隣の記事に目がいく。

「くらしの明日 私の社会保障論」というコラムに,「年功序列が崩れない理由」と題して山田昌弘さんが書かれている。

山田さんは,10年ぐらい前に『希望格差社会』という本を書かれた方だ。

「希望」にも格差があるという指摘だった。

そこで,こちらの記事を読む。

 

日本では,新卒採用に失敗したり,採用されてもやめて再就職となると,正社員の道が遠くなる。

その理由を山田さんは,「敬称」や「敬語」に求める。

これは大学のサークルでも同じだそうだ。

サークルは新入生の時に入るのを逃すと,入りにくくなるという。

なぜなら,日本では地位が上の人には「さん」付けで,同じか下のものには「くん」や「呼び捨て」になる。

2年でサークルに入ると,1年生からは「さん」づけで親しくなれず,同学年の人達はサークルでは先輩となり,仲間に入りにくい。

 

日本の場合,職場の上下関係は,そのまま人格上の上下関係と捉えられやすい。

今まで対等だったにもかかわらず,会社の中であるものが昇進すると,上下関係が生まれる。

会社の側も,年下の上司や年上の部下がなるべくいないように配慮する。

そうなると,ある程度の年齢で新入社員として入社することが難しくなるという。

 

諸外国の言葉(英語や中国語)は,丁寧な表現はあっても,身分的な上下をあらわすための敬語がない。

それに,職場は職場で,人格は人格と割り切るし,年功序列がないため,職場を変えることは自分自身のキャリアアップにつながるから割り切りやすいわけだ。

 

「多様な人材の活用が求められている時代には,年齢による上下関係を維持する仕組みは,むしろ企業発展の障害になっているのではないだろうか。」

「日本でも,呼び方の改革を考える必要があるかもしれない」と結ぶ。

 

もともと,日本は身分社会であり,封建制社会であった。

時には武士が,あとは天皇を頂点に置くヒエラルヒーがあり,それゆえ敬語なるものがある。

それだけではなく,内田樹さんが『日本辺境論』に書いているように,日本は,中国の華夷秩序に周辺に位置付き,戦後はアメリカの傘の下に自らを位置づけてきた。

主人の交代劇に対する身代わりの早さは,ベネディクトの『菊と刀』にも出てくる。

 

日本人は,無意識的なポジション取りによって,そのような「辺境人の思考」(内田さん)を身につけて生きてきたようだ。

たとえば,漢字=中国言葉は真名であり,ひらがなやカタカナ=日本言葉は仮名というように,日本語は仮の言葉のまま。

日本語には,さらに男言葉と女言葉もある。

 

そして,「そうだ。そうです。その通り。遠い神代の昔から,男が偉いに決まってるぅわ~」と植木等に女っぽくうたわせる唄もあった(「そうだそうですその通り」,『日本一の男の中の男』(東宝映画))。

どうやら,日本人は上に何か重しがあって,下にも何かあるというポジションが好きなのかもしれない。

特に男は。

 

何を隠そう,僕も学生時代は同級生と先輩からお褒めの言葉をいただいたものだ。

「石田が同級生でよかった。」

「石田が後輩でよかった。」

残念ながら,後輩からは「石田さんが先輩でよかった」というほめ言葉はもらっていない。

 

言語構造が人間の思考の様式を決めているということは,ソシュール言語学以来,よく指摘されることである。

虹は7色というのは日本的で,アメリカでは藍色は認識されずに青でくくられる。

そのため,アメリカでは虹は6色。

言語によっては2色というところもあるそうだ。

 

だから,言語構造が思考を規定しているのに,山田さんが言うように,構造を変えるのではなく(そもそもそれは無理な話),使い方を変えようというのは,難しいのだろう。

 

そうか。

だから,今,日本のアメリカ化=グローバル化を進めるために,英語教育を小学校でも,大学でも,企業でもすすめているのだ。

日本人の上下関係的思考を抜け出すには言語構造を変えるしかない。

先にそれは無理だと云ったが,政府は本気で考えているのかもしれない。

 

グローバルな言語であるアメリカ語を,日本のみんなが用いることで何とかなるのでは,という発想だ。

なにしろ,アメリカ語には丁寧な表現はあっても,身分の上下に対応する敬語はない。

そうやって対等な関係に持っていこうとしているかもしれない。

安倍さんも考えたな。

 

しかし,そもそもその発想自体が,アメリカと日本の上下関係を表しているという矛盾がある。

 

 

 

 

 

 

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