体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

愛知支部学習会に参加して 学習会編

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,愛知支部学習会での中味について書きたいと思います。

本当は,議論の様子を詳しく報告できるとよかったのですが,割と僕がしゃべっている時間が長かったので,上手く報告できないかもしれません。

では,どうぞ。

 

僕の報告は,冒頭で次のようなことを述べた。

文章を書くということは,考えを言葉で表現するのではなく,表現されたことによって,自分の考えが分かるという順序になるということ。

それゆえに,「書けない」という人は,それだけの思考しかないということ。

終わりの感想文に,サトエリちゃんと半崎くんが反応した。「まさにその通りだ」と。

 

次に実践記録の歴史。

実践記録は,生活綴方教育運動のなかで生み出されたものであること,そして生活綴方は社会変革のための教育運動であり,日本に固有の教育方法であったことを述べる。

そのため,地域社会や日本社会の矛盾が子どもにどのように出ているのかをあわせて見る必要があった。

 

そして,体育における実践記録の起こり。

これは,イコール体育における生活綴方ということで,例えば小関太郎さん,佐々木賢太郎さん,亀村五郎さん,塚田実さんなどである。

 

今回僕は,佐々木賢太郎さんの『体育の子』にも収録されている「ひろたかの記録」の前半部分をコピーして配布した。

これは,紀南作文教育研究会の機関誌『紀南教育』7号(1952年)に載ったガリ版ずりのものである。

僕にとっては,マニア垂涎の品だった(といってもコピー)が,興味のない人には単なる昔の話だったか。

 

この話の話型は次の通り。

遅れた子どもへの着目。

その子やその身体に表れた社会の矛盾を読み取る。

子どもたちに社会の矛盾に目を向けさせる。

自分だけの問題ではないことに気づかせる。

その子どもを集団で励ます。

そして,教師の綴方=実践記録を他の教師と読みあう(この場合教師と教師は水平の関係)。

 

これと比較するのに丁度いいのが,伊藤高弘さんの「泣いたオモちゃん」の話。

これは,基本的には子どもの作文なのであるが。

 

オモちゃんを含めた数人の子どもが,バレーの後衛を守っていて,時々ボールが飛んでくると,上手くボールがとれずにはじいてしまう。

そして,とうとう泣き出してしまう子も出てきた。

それを,みんなで話しあいを持って解決していく。

 

苦手な子への着目は同じ。

しかし,佐々木さんが実社会の矛盾を問題するのに対して,伊藤さんは,スポーツの場面において現れる子どもたちの矛盾を問題にする。

さらに,「泣いたオモちゃんが悪いのか,泣かせたバレーボールが悪いのか」と問い,バレーボールの側(運動文化と,その体制)を問題にする。

そして,両者ともに,その子たちを励ましていく。

 

この部分には,堤さんが反応した。

実は,実践記録が「生活の記録」といった場合に,僕たち体育同志会では,実生活を問題にするのか,体育・スポーツにおける「生活性」を問題にするのか,ここを問う必要があるのだ。

 

もう一つ堤さんが反応したのは次のところ。

「子どもの生活綴方は,子どもと子どもを結びつける。

教師の実践記録は,教師と教師を結びつける」。

考えてみれば,実践記録はサークルの強みや弱みを表すものである(大田堯)ならば,一人で書いて発表された実践記録は,実践記録とはいえない。

あるいは,教師と教師を結びつけることができいない実践記録は,実践記録とはいえないとも云える。

 

次に,全生研の実践記録から次のような練習問題を出した。

これは,前のブログにも書いたもの。

(中3の実践)「二学期のはじめには,班長の立候補者が,11人になった」。(大西忠治,1984,28頁)

 

これだけしか書かれていないが,何を読みとる?

何を突っ込む?

これを中学校の教師経験のあるひづるさんに聞いてみた。

 

「中3の2学期は,受験に向かう時期。その時期に,11人も班長に立候補するのはすごいこと」。

さすが,ひづるさん。

その通りで,「11人になった」は事実であるが,「中3の二学期にもかかわらず」,「11人にもなった」という価値づけがされるべきなのだ。

そして,それはなぜかが書かれているべきなのだ。

こうやって,自分の経験に照らし合わせて読んでいく必要があるのだ。

 

もう一つひづるさんの鋭かったところ。

「今の愛知支部の実践記録に足りないのは,事実は書いてあるが,問題にぶち当たったときに,自分はそこで何を考え,どうやって乗り越えようとしたのかが書かれていない。

だから,そこを書かなくてはいけないのではないか。」

これには勉強になった。

思考の枠組みを変えていくためのプロセスへの着目ということだ。

 

ということもだし,次のようにも考えられる。

 

体育同志会の先生は,グループでの教え合いを大切にするから,子どもたちの感想文に,「何を教えてもらったのか,誰から教えてもらったのか」を書くようにしていることが多い。

 

だから,教師の実践記録にも,「誰から何を教わったのか,どんな議論になったのか,それで自分はどう思ったのか,どうしようとしたのか」を書くとよい。

 

もう一つ。

今回の夏の注目の実践の1つは,大阪の中川孝子さんの実践である。

それを冬大会の俎上に載せようと考えている。

ひづるさんは,中川実践の報告で学んでほしいことは,たくさんあるけど,なかでも,その書き方だという。

 

つまり,中川さんの実践記録には,まず彼女自身の問題意識がまず書かれ,それに対してどう迫ろうとして,成果はこれとこれ,まだ分かっていないことはこれとこれ,いうことが書かれている。

その書き方をこそ学ぶべきだという。

研究局の僕らは,実践記録というよりは,実践の中味を問題にしていたので,これもなるほど勉強になった。

 

中川さんの問題意識は鮮明である。

今は「グループ学習」についてである。

それは,山内基広さんの問題意識とも共通する。

山内さんが実践記録を書くのは,それによって,器械運動の指導の系統性への仮説が立てられ,検証されるからだ。

レベルが高い。

 

最後に,僕は体育同志会だからこそ,書かれるべき中味についてぼんやりと言及した。

でも,これはもう少し深めてからブログに書くことにしたい。

 

1つだけ述べるならば,実践をやる上で,同僚との関係や,教場(体育館や運動場)の使用の問題など,条件作りをどうするのかも書きたいところだ。

 

愛知の若い先生からも,ベテランの先生からも学ぶことが多かった。

また,呼んでくださいね。

僕は実家が名古屋だし。

 

 

 

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