体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

体育と実践記録10 大田堯の実践記録論2

こんにちは。石田智巳です。

 

前回はようやく「実践記録論」に入りました。

そして,大田堯(おおたたかし)さんの「教師の実践記録について」(『教育』1954年7月臨時増刊号)を読みましたが,途中で終わってしまいました。

 

前半は,いわゆる「調査もの」という「実践記録ならざる実践記録」の批判が書かれていました。

「調査もの」の実践記録が何よりも批判されるのは,それが教育界の古い仕組みや体制に取り込まれているからでした。

指導要領が変わると,すぐに乗り換えるのと同じメンタリティを批判しているのです。

 

後半は,「ほんものの実践記録」について書かれています。

これを読みます。

では,どうぞ。

 

前回の「調査もの」ではない実践記録は,「綴方教師の手記などから,新しいタイプの実践記録」である。

「いわば教師の生活綴方ともいうべきものであろうか」(160頁)。

 

この種のものの特徴は,いずれも「自己をあらわにしている」のだ。

調査ものは,実践者の行動や判断や感情などが省かれていることが多いが,この実践記録は,具体的であり,現実性を増してくる。

 

もちろん,「自分の実践を取り巻く客観的条件の分析がなく,その中に出てくる出来事の問題点を明らかにしない」ものもある(161頁)。

 

あるいは,「『一人の喜びをみんなの喜びとし,一人の悲しみをみんなの悲しみとする』という学級経営の公式(?)が頭のなかに」あって,ようするに「概念」にまけてしまうものもある(161頁)。

 

「すなおに自分の実践の事実をつづることは何としても容易ではない」(161頁)。

 

では,どうしたらいいのか。

以下の大田さんの書いている内容は,意外ではあったがなるほどと思わせる視点である。

というか,前回の内容から全くぶれていないといえるのだ。

 

「すなおに自己の実践をみつめて,自分の実践者としての発想を正しく守るには,何よりも自分を取り巻く周囲の人間関係がつくりかえられることが前提になるのではないかと思う」(161頁)。

 

「そういうものを育てるための土壌を,自分たちの力によって用意しなくてはなるまい。つまり同じ職場の実践者としての同僚との人間関係のつくりなおしをやる必要がおこるだろう」(161頁)。

 

要するに,学校が職制によって上から管理されるような体制であったり,教師が学級王国のボスとして君臨するような縦社会の人間関係では,ダメだといことだ。

 

当時,綴方教師たちは,自分たちを「ぼんくら教師」と称していた。

紀南作文教育研究会(紀南作教)に集う教師たちは,自分たちを「ぽんくら」と云っていた。

このような遅れた教師たちの中にある「素朴な疑問や問題をこえ一しょ(越え一緒-石田)に考えあって,積極的に仲間同志で解きほぐしていこうとする態度に支えられる意識(161-162頁)のことである。

 

ところが,縦の人間関係を守ろうとするいわば「すすんだ教師」たちは,この横の関係をこわそうとする。

「権力が抑圧を強化するほど,ますます仲間意識は加速度的に増大する」(162頁)。

 

仲間への外からの干渉は,つねにそれを機会として,仲間意識を強化するようにしむける必要がある。

仲間の間での問題が停滞し,ゆきずまるのは,そのサークルがあまりにも安泰であるからだと思う。

そこからの圧迫と干渉は,仲間の停滞を破る絶対のチャンスでさえある」(162頁)。

 

「このささやかな仲間の人間関係がおそらく,僕たちの胸をうつようなほんものの実践記録を生み出してくる地盤であると思う。実践記録の実態は,それを生み出す人間関係のあり方にかかわっているといってもいいと思う」(163頁)。

 

「そのことはまた逆に,実践記録がその仲間の実践を表現し,そのことによって仲間の在り方を支えたり,発展させたりする役割を果たすということだ」(163頁)。

 

先ほども述べたが,大田さんの問題意識はぶれない。

権力からの外圧が強くなれば,仲間意識を育てるしかなく,そのような緊張関係においていい実践記録が書かれるということだ。

だから,安泰なサークルからはいい実践記録が出てこない。

 

構造主義的な発想だ。

あるいは,マルクスの上部構造が下部構造に規定されるという云い方にも近い。

いずれにしても,個人の実践記録は個人のものであっても,サークルの力の総体を表しているのだ。

大阪の若手がいい実践記録を書くのは,権力の圧力が強いことと,(それ故に)サークルへの凝集性が高いことによるのだろうか。

 

そして,このことは,おそらく戦中に生活綴方を守り通そうとしてつながろうとした人たちを睨んで書いていると思う。

 

実践記録論というよりは,実践記録を生み出す土壌やサークル論について書いていると読む方がよいだろう。

 

まだ,実践記録の書き方やその中味について言及するには,時期尚早ということだろうか。

 

それでも,大田さんが示したこの視点は今のサークル活動にも通用する。

僕たちが忘れてはならない視点だと思う。

 

また,これでようやく城丸章夫さんが1955年に書いた問題意識,「実践記録集の出ていない体育科は民主化されていない」ということがわかると思う。

つまり,この大田さんの文章を受けて城丸さんが書いたともいえるのだ。

当時の教科研に共通の問題認識だったのかもしれないが。

 

実践記録が出てくるには,民主的な人間関係が組織されていないといけない。

そして,そのことによってのみ縦社会の人間関係を押しつける権力に,わずかでも抵抗することができるのだ。

 

 

 

 

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