『たのしい体育・スポーツ』9月号-実践のひろばの続き
こんにちは。石田智巳です。
一昨日は,『たのしい体育・スポーツ』2014年9月号の植田真帆の文章を読みました。その時に書ききれなかったことがあったので,それを書きます。
では,どうぞ。
前の記事では,「武道は矛盾に充ち満ちている」と書いた。
これは決して悪い意味で書いたのではない。
前には書かなかったが,戦後,好戦的という理由で武道(柔道,剣道,薙刀)は禁止された。
それが復活して,必修化されたことだってある意味では矛盾だ。
柔道は人づくりとする「柔道ルネッサンス」も,柔道部員のあまりにひどい行動・言動から来ている。
これも,「道」からすれば矛盾。
というか,柔道が悪いんではなく,それを扱う人の問題だが。
あと選手であれば,試合では絶対にとらないであろう受け身が基本というのもある意味矛盾。
これらは,武道というよりもスポーツということだったらわかる。
それでいいわけではないけど,勝ち負けが優先されるからね。
かつては,武道の精神的側面を排除した形で,格技として復活したのであった。
スポーツとしての剣道や柔道だったのだ。
そもそも,その二側面をもつこともまた矛盾なのかもしれない。
さて,一昨日のブログでふれたが,中学校の学習指導要領では,武道は,柔道,剣道,そしてすもうの3つがあげられている。
が,武道の必修化問題で,すもうが問題になったことは寡聞にして知らない。
『日本教科教育学会誌』では,小学校ではあるが,すもうの効果にかかわる研究が載っていて読んだことがある。
組ずもうと棒ずもうをやったが,組ずもうの方が子どもたちの攻撃性が少なくなったというものだ。
真帆や,その師匠の矢野さんがいうように,相手と組むという直接的経験がよい作用を及ぼすのだろう。
組んではじめるすもう(以下,一般的に用いる場合は,相撲)は,とてもいいのではないかと思ってしまうが,体育同志会の議論になってはいない。
相撲と大相撲を一緒にしてはいけないのかもしれないが,大相撲界もいろいろ問題を抱えていた。
2007年には時津風部屋で17歳の少年が暴行死するという事件が起きた。
大麻の問題,八百長問題もあった。
大相撲の問題が起こるたびに,識者が批判的な論調で書いていたが,一人玉木正之さんだけが全く違う論調で書いていた。
毎日新聞のコラムに書いていたのであるが,詳しくは覚えていない。
以下のような感じだった。
相撲というのは神道の儀礼にのっとって,非日常的な空間で行われるものである。
あるいはもともとが見世物である。
玉木さんは,それを近代スポーツと同じような(まさに)土俵に載せて論じても仕方がないということを云っていたのだと思う。
「ふ~ん。なるほど」。
たしかに,異形の者が取っ組み合うという意味では見世物の一つではある。
というわけで,大相撲が念頭にある限り,相撲を教材とするのは難しいのか。
だって,神道の儀式に乗っかっているわけだし。
でも,戦後,武道が禁止となっていたときには,「すもう」は学習指導要領にもあった。
このときはもちろん,武道ではない。
じゃあ,今の武道に含まれる「すもう」は伝統文化なのか?
だとすれば,神道と関係あるのか?
それは教えなくていいのか?
悩ましいけど,そう云う話はあまり聞かない。
それから,一昨日のブログの最後の方で,武道は「身体の感度を上げるためにある」ということを述べた。
これは,内田樹さんの言い方だ。
しかし,考えてみれば,身体論的には,スポーツや子どもの遊びはそういう身体の感度を上げることが行われているのだ。
つまり,例えば基地のある鬼ごっこがわかりやすい(ケイドロやポコペン)。
こういう遊びは,逃げる側が完全に隠れてしまえば,理屈上は捕まることはない。
しかし,そうなったらもはや遊びとして機能しない。
だから,ときどき顔を出して,鬼や警察を基地から離れさせようとする。
そして,鬼や警察に捕まった子どもを解放しようとする。
そのときに,捕まらないだけの距離を,基地と鬼や警察との関係で保つ必要がある。
鬼は鬼で,基地を守ることと,相手を見つけに行くことの二つの任務があるが,基地を守るだけでは遊びとして機能しない。
この両者を両立させるためには,まさに身体の感度を上げて,気配を感じる必要がある。
ある場所に逃げた子どもを探しに行くが,そのときに常に基地に誰かが近寄っていないかという気配を,背中で,あるいは身体全体で探ろうとするのだ。
これは,学校体育では,球技へとつながっていく。
学校の種目ではないが,野球の守備は,相手が打った瞬間には全員が移動している。
それは理屈ではなく,気配を読むことで身体が動くのだ。
練習はその繰り返しである。
武道も同じかもしれない。
だから,子どもの体力低下が問題なのではなくて,身体の感度が上がっていないことの方が問題なのだ。
身体の感度を上げるために遊ぶわけではないが,身体の感度を上げるように遊べば,体力もつくだろうし,ボール運動や球技へと発展もしやすいだろう。
でも問題は,感度を下げる方向に世の中が向かっているということだ。
京都駅は普段からものすごく人が多い。
それでも普通歩いていると,何となく流れができる。
人は知り合い以外の人が,ぴったりと寄り添うようにして歩くと,何となく不快になり,リズムを換えようとする。
あるいは,一定の距離を保とうとする。
ところが,イヤフォンで音楽等を聞いている人は,全くそこに配慮がない。
スマホの人もそうだ。
あり得ないような動きをする。
流れを無視して突然止まる。
突然振り向く。
周りの動きを全く感じていない。
車の動きが変な場合もスマホだ。
自分で自分の気配を消しているつもりだろうが,身体の感度をかなり下げており,いわば無防備状態。
それは,カーナビなどが地理を想像する力を失わせることにもつながる。
今では,カーナビ無しではいられないが。
かつてはなくても全然平気だったのに。
そうやって考えると,文明の利器はほとんどの場合,人間の基本的諸力を失わせる方向に働いているわけだ。
しかし,そうやって失うものと得るものがあるわけでだから,あれもこれもと求めすぎても仕方がないのかもしれない。
遊び,スポーツ,武道が身体的な感度を上げるということは確認できた。
が,それを実証的に研究することはできない。
ただ,身体的な感度を上げるようなやり方と,上げないようなやり方があるのであり,前者はいったいどのようにすることなのかを考える必要があるだろう。
体育同志会的ではないと云われそうだが。
追記
この記事をアップした後に思ったことです。
ケイドロや鬼ごっこというのは,遊びだけどある意味では動物のサバイバルを模した形になっているのですね。
生死がかかっているわけです。
そりゃあ,身体的な感度も上がりますわなあ。