体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのしい体育・スポーツ』9月号を読む   -「かぜ」と「現場レポート」

こんにちは。石田智巳です。

 

今日は,『たのしい体育・スポーツ』(以下,「たのスポ」)9月号を読みます。

なかでも,「かぜ」と「現場レポート」を読んで考えたことです。

今日はおそらく,この号の意図を読み取ることになります。

では,どうぞ。

 

この特集の意図は,「かぜ」を読めばわかると思う。

「かぜ」は,武道の必修化という制度の問題と,武道(柔道)界の問題,そして安全,伝統と文化,教えるべき内容という教科指導にかかわる問題などを,「自らの(武道)実践と照らして再考する意味は十分にあるのではないか」と述べる。

 

たしかに,必修化だとか,諸問題が噴出しようがしまいが,「自分は」武道で何を教えてきたのかどうかを問うことは必要である。

「自分は」と述べたが,本来は,「体育同志会は」と問いたかったのだろう。

「体育同志会は」といわないということは,そこまで積み上げてきたものがないのだろうか。

ないことはない。

 

ただし,今は,分科会(剣道,柔道)分科会がないため,その成果を生かして授業を展開している人が少ないのかもしれない。

その意味では,せっかくなので,体育同志会の武道の到達点のうちの,系統的な指導の中味や,指導の展開の仕方を紹介する内容があってもよかったように思う。

「現場レポート」は,中学校で働く若手,中堅,ベテランの5名が執筆しているが,そこへの言及が少ない。

 

と書いているうちに,そういえばそんな内容が過去の「たのスポ」にあったような気がして探してみた。

あった。

 

2012年9月号。

ここに大和繁さんが柔道について書いている。

そして,簗田陽子さんが舞踊について書いている。

この号は,中学校体育の特集であったが,このときの「かぜ」も今回と同じ成瀬さんだった。

 

でも,僕が思っていたのはこの号ではない。

柔道の投げ技が劇画タッチで描かれている号があったはず。

そこで,自分の部屋にある「たのスポ」をさらに探す。

あった。

 

2009年1月号。

特集は,「武道の必修化問題を考える」だ。

ここに柔道ではあるが,体育同志会の技術指導の系統について書かれている。

この号の「かぜ」は成瀬さんではなく山本秀人さん。

成瀬さんはこのときは,「武道の必修化-私はこう考える」を執筆している。

いずれにしても,愛知班の編集だ。

 

あれ。

この号に僕は執筆している。

思い出した。

2008年の鹿児島大会で,武道の必修化問題を取り上げたんだった。

その時に,大和さんと成瀬さんに話をしてもらった。

僕は司会というか仕掛け役だった。

なので,柔道に限るが,体育同志会の柔道で教える内容については,この2009年1月号を読むとよくわかる。

 

少し整理しよう。

武道の必修化は,2008年3月の学習指導要領で具体化された。

2008年7月には指導要領の「解説」が出される。

2008年8月の鹿児島大会では,「武道問題」の特設分科会を立てた。

それらを受けるように,「たのスポ」2009年1月号では,武道の必修化という制度の問題を取り上げると同時に,柔道に限ってではあるが,体育同志会の成果について特集した。

 

ということは,今回の「たのスポ」の位置づけは?

武道の必修化の指導要領が実施されたのが,2012年4月。

この間,武道を含めたスポーツ界では,体罰,暴力問題,協会の体質の問題などが取り沙汰された。

そして,柔道死の問題や外部指導者の問題,あるいは道具の問題,しつけや礼儀の指導への矮小化などが云われてきた。

それらの矛盾が,現場にどのように入り込んでいるのかを特集しようとした号だと読むことができる。

そういう観点から,「現場レポート」を読んでみると次のことに気づく。

 

一つは,外部指導者(有段者)の問題である。

有段者がいない場合には,体育教師だけの指導はいけないというものだ。

これは「安全面」からくる措置なのであろうが,沼倉さんの書いていることはよくわかる。

 

「視察や外部指導者を入れてまで安全面ばかりを気にする姿勢を見ていると,学習内容が薄と感じていても無理をせず,ケガだけはさせずにやり過ごそうと思ってしまいます」(9頁)。

授業中に生徒がケガしたら,「そらみたことか」と叩かれるのだろう。

 

でも,「有段者がいたからといってケガがなくなるかと言えば,決してそうではありません。むしろ,どんな場合にケガが起こるのか,研修や学習を積んでいる指導者の方が安全面は高いと思います」(10頁)。

 

その通りだと思う。

これは,柔道死の問題が取り沙汰されたときに,「じゃあ,やめた方がいい」という論が出てくることを恐れたことと似ている。

 

昨年,京都市では小学校のプールで事故死があってから,現場では,監視体制を強化するように求められたという。

そのため,単級での授業では,教師がプールに入って指導することは難しくなるという。

そして,西宮市では,3割の小学校が夏休みのプール開放をやめたという。

 

じゃあ,体育授業はケガや死に近いから教科をなくそうとはならないだろうが,安全にやったという事実だけが求められるようになるのだろうか。

「お茶を濁した指導」が多くなるのだろう。

 

あと,外部指導者については,部活動でも同じような問題が起こっているのであり,整理が必要であろう。

沼倉さんが書いているように,教育の論理と競技の論理の混同が起こるのだ。

これについても,またどこかで触れておきたい。

 

他に,読んでいて気づいたのは,①教える内容の問題と,②教えた後の評価の問題と,③教えた技を生活に生かす子どもたちの問題の3つである。

生活に生かすとは,ケンカやじゃれ合いに技を使うということである。

 

この最後の問題は,植田真帆の実践の広場ともかかわるので,また別の機会に書きたいと思う。

 

全体的にトーンが重い。

上原さんだけがあの笑顔で語りかけてくれるような明るさを感じさせた。

それは彼女のあのキャラクターから来るのだろうか。

 

 

 

 

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