実践記録について3 兵庫支部ニュースから
こんにちは。石田智巳です。
今日は実践記録についてです。
これまで2回,1955年の城丸章夫さんの文章を読みました。
歴史的な話ばかりを続けても,興味のない方は飽きると思いましたので,今日は最新(?)情報をお届けします。
最新情報というのは,8月のなかばに届けられた体育同志会の兵庫支部のニュースのことです。
なお今日は,研究会に来ているのですが,愛知の伊藤さんから,9月21日に支部の学習会に来てほしいと云われました。
実践記録に関してです。
ブログでは,話をどんどん広げていくつもりですが,どこかでまとめる必要が出てきました。
その前に今日の話です。
では,どうぞ。
『同志会ひょうごNews』7・8月号が届いた。
岨(そわ)さん(もちろん,お父さんの和正さんのこと),頑張っているなという印象だ。
それは,①巻頭言を書いていること,②7月20.21日に行われた支部研究会(支部大会)の基調講演をしたこと,そして,③事務局だより欄も,岨さんが埋めていることからである。
なかでも,僕の興味関心に引き寄せてみると,支部研究会の基調講演の報告がどうしても目につかざるを得ない。
支部大会のタイトルが,「実践記録はなぜ,どう書くのか~実践を問い直す視点をさぐる~」である。
そして,基調講演のタイトルは,「実践記録を書いて自分の実践力量をアップさせよう」である。
これは,日外(あぐい)さんの報告であるが,コンパクトにうまくまとめてある。
キーワードは「実践記録」である。
兵庫支部は,この1年間で,5人の若手が支部,関近ブロック集会,全国大会などで実践報告を行ってきた。
若手が育ちつつある。
もちろん,そこには,岨さんや大宮さんをはじめとした支部のベテランの面々の支えがあったことは想像に難くない。
サークル活動で,若手に「来い」と云うだけでは来ないし,来ても自分に力がついたと実感できなければ,定着しない。
では,どうすればいいのか?
妙薬はないのだが・・・。
さて,講演である。
講演の1は,「どうして実践記録を書くのか」を5点から考察している。
①意味を問い直すために(文芸研の西郷竹彦氏の提案から)
実践記録を書くことによって,子どもの変容をどう理解するかを考えることができる。
②分析する視点(実践を分析するために必要なこと)を学ぶために
1)目標に着目
2)目標実現のための手立てと結果
3)目標と結果の矛盾が実践記録を見直す視点
4)集団論議にかける。書かれていないが大切な点が論議になる。
5)社会状況の変化によって,従来の教育理論で提起されてもあてはまらないものもある。
③意味を問い直すことで,教師自身も成長するために
普段の報告は,実践記録ではなく,実践報告・実践資料である。
実践記録とは,教師が仮説を立て,ある問題意識を持ち,切り取ったもののことをいう。したがって,自分がとった実践記録(事実)から自分が立てた目標や視点を見つけ,焦点化していくものであると考える。
こうした作業を通して,教師自身が自分の指導や授業展開を振り返り,子どもの成長から有効な指導法を学んだり,試したりすることで教師自身の教材解釈が深まり,指導法も進歩していく。
④現実を踏まえ,現実を越えていくために(井上憲雄先生からの指摘)
意味を問うことは虚構である。
実践記録にどういう題名をつけるかが重要だと思っている。実践とはある事実である。何をとって,何を選び取るか,そこに虚構が始まっている。そこに教師が実践記録を書く意味がある。
⑤実践をを書くことで気づくために
岨実践(20代から)の変容。
道徳的体育実践から,発達段階に応じた教材づくりへ。
講演の2は,「一人で書くだけでは成長しきれない,集団討議にかけてこその実践記録」である。
集団的批評が教師を鍛える。
集団的議論にすることで,以下の力がつくと出原泰明さんは述べている(そうだ)。
①新しい視点が生まれ,実践資料のなかから事実の選択ができる。
②他人の実践記録を分析する。
③集団的批評のあり方を問う。
講演の3は,「日常の定期的な例会の継続こそが鍛えられる!地道な取り組みを!!」である。
以上が,岨講演の日外報告である。
これだけではわかりにくいが,非常に納得できる部分が多い。
例えば,次のことなどがそうだ。
7月19日に全国研究局会議in京都を開催した。
そのときに,愛知の丸山さんが,研究局の中期計画に,「研究する組織の構築」をあげたが,そのときに岨さんもおられて,熱心に聞いて発言しておられたからだ。
岨さんはそれを兵庫支部で試そうとしている。
内容に関しては,報告の報告なので,誤解・曲解とならないように慎重にならなければいけない(というか,ここから僕が書くことは井上さんの云う「虚構」である)。
まずいいと思ったのは,基本的に自分自身の経験をベースとしているというところだ。
つまり,偉い指導者が云うことの受け売りではないということだ。
そして僕は,1の④のところで,井上憲雄さんの指摘にあった「虚構」というのがとても印象に残った。
この「虚構」というのは,どちらかというとネガティブな言葉である。
しかし,ここで云う虚構とは,「私によって切り取られて構成された現実・世界」のことである(と思う)。
これはまた,勝田守一さんのいう「形象化」の作用のことであろう(勝田「実践記録をどう評価するか」『教育』1955年7月号,82-86頁)。
つまり,客観的な世界が(仮に)あるとしても,私にはそれが一気に開示されるわけではない。
私は世界を常に,私の色メガネで見ているのだ。
それが悪いと云っているのではない。
私は常に,私の視点によってものを見て,現実世界を切り取り,自分なりに構成する。
だから他人とは,見え方というか,見えているものが違う。
そして,見てもない人が,実際に見て実践を報告した人よりも,よく見えていたということはある。
それが,集団討論によって,弁証法的に世界を切り取るハサミや見る目が育ちっていくことになり,実践や実践の見方にかかわる共同的な認識がそこに立ち上がることになる。
だから,個人から見れば,体育同志会的なこの共同的認識を身につけ,その集団に仲間入りするために,実践記録を書いて,集団検討をする(してもらう)といえる。
また,集団からすれば,その個人がそうやって力をつけて集団に入ってくれることで,集団が維持できるとともに,さらに若手を受け入れる準備をすることができる。
ここで,重要なのは,実践記録を書くのは若手だけではないと云うことだ。
若手の成長のためには,若手も書くが,ベテランも書いて検討することによって,ベテランに見えていて,若手に見えないものが明らかになる。
だからこそ,実践記録をどう書くのかと,何を書くのかと,どう集団討議するのかが問われなければならないのである。
これが難しいのだが。
みんな言いたいことがあるからね。