体育と実践記録2-1955年という年
こんにちは。石田智巳です。
この間,「体育と実践記録」について書こうと思ってから,キャンプに行ったり,ランニングの記録を書いたりで,飛び飛びになっていました。
その間にいくつか文章を書いていたのですが,やっぱり気になったので,前回の「体育と実践記録について1-実践記録以前 」の続きを書きます。
では,どうぞ。
前回,1955年12月に出された城丸章夫さんの文章を読んだ。
そのなかで,城丸さんは,体育には実践記録を出版したものがないということで,体育の後進性,非民主性を主張し,また,輸入体育=植民地体育を嘆いていた。
そして,「体育と生活指導を結びつけるところから始まる」ことや,「生活綴方を用いた体育」を期待していた。
では,このころの「実践記録」の状況はどうだったのであろうか。
1951年に出された『山びこ学校』は,生徒の綴方が載った「生活記録」,「綴方集」である。
子安潤によれば,「教育実践記録」とは,「教師の奮戦記的なものと,子どもの作文集・作品集の類のものと,日常の教師と子どもの交流報告あるいは授業記録を中心としたもの」の3種類があることになる(子安潤「教育実践記録」,吉本均編『現代授業研究大事典,1987)。
しかし,教師の実践記録をここでは対象としたい。
そこで,『教育』という城丸さんが所属していた教育科学研究会(教科研)の雑誌を探ってみた。
決定的だと思ったのは,1954年の7月に臨時増刊号が出されていることだ。
そして,それが「教師の実践記録特集号」となっているのだ。
もちろん,それ以前にも個別の実践記録は載っていた。
各教科の実践記録を特集した号もあった(後述するが,「体育」もあった)。
この「教師の実践記録特集号」の諸実践記録をめぐって,勝田守一さんの司会,五十嵐顕さん,太田堯さん,大槻健さん,宮坂哲文さんによる座談会が開催されている。
それが,1954年11月号と12月号にわたって,掲載されている(「教師の実践記録をめぐって」)。
この座談会に対して,福島教育科学研究会が共同で批判を提出する(55年4月号「実践のあげしおをつくるために」)。
これに答える形で,先のメンバーで討論された内容を勝田さんがまとめて報告する(55年7月号,「実践記録をどう評価するか」)。
この勝田論文は重要な論文である。
なぜならば,例えば久保健さんが「なぜ実践記録を書くのか」(『たのしい体育・スポーツ』2011年2月号)を執筆する上で参照している論文だからだ。
ここまでで,『教育』=教科研の実践記録に対するひとつの流れが形成されたといえよう。
城丸さんも,当然,この流れは見ていたはずだ。
そして,同55年10月号に,城丸さんが「体育の正しいあり方を考えるために」を発表する。
これが城丸さんの初めての体育に関わる論文である(注が必要,後述)。
その隣には,元宮教大の中森孜郎さんが「体育教師のなやみ」という「実践記録」を載せている。
そして,前回の1955年12月の城丸論文(「体育科」)が発表される。
教育の雑誌では,1955年以前でも,確かに実践記録を載せているものが多くあった。
ただ,現場教師の記録ではなく,研究者による「実践記録論」が出てくるのが,1954年のことだといえる(ここでは,『教育』のみを対象とした)。
では,「体育と実践記録」はどうであろうか?
『教育』では,最初の体育(保健体育)の実践記録は,1954年の6月号である。
小関太郎「健康記録をかく少年たち」
佐々木賢太郎「肩をくみあう子どもたち」
この二つである。
前者の小関さんの実践記録については,久保さんが書かれた文章(『戦後体育実践論』第1巻,創文企画,1997年に所収)にくわしいので,省略。
後者の佐々木さんの実践記録については,佐々木研究者の僕が書いた文章に載っているので,省略(またいつかこの実践記録のすごいところを報告します)。
こういう状況であったので,1955年当時は,まだまだ手探りだったといえるのだ。
つまり,城丸さんが体育科に実践記録がないと嘆いたのは,確かに出版物はなかったが,そのことよりも体育科の体質を問題にしていたのだ。
ここからはそのことと関わって,脱線する。
というか,脱線して終わる。
実は,かつて佐々木賢太郎研究の一環で,『教師の友』という雑誌の復刻版をあたっていたことがある。
そのときに,1955年の3月号の『雑誌短評』という頁に面白い記事を見つけた。
内容の要約は以下の通り。
体育教育関係の雑誌は,「新体育」「学校体育」「体育科教育」「体育の科学」の4つがある(もちろん,当時のこと-石田)。
「体育の科学」を除くと,あとの3つはどれも似ている。
さらに,各誌とも「和気アイアイ」として,「同業者団体的においが強すぎる」という。
「その証拠は,論争がない。主張や批判がない。長幼の序が守られている。執筆陣が部内にかたよっている・・・」(51頁)
「『体育科教育』が現場人の投稿を比較的よく生かしているほかは,あまり生かされていないし,現場の無名人がサッソウとトップ記事をかざるというほどに尊重されてもいない。」(51頁)
そして,各誌の55年2月号の誌面を批評する。
たとえば,「『体育科教育』の2月号は,『体育におけるしつけと訓練』(宮畑虎彦)『教育における社会化と個人差』(小澤謙一)というネボケタお説教をトップ記事としているが,『佐市の日記から学ぶ』(佐々木賢太郎)の方がずっと面白く,また問題をふくんでいる」(「佐市の日記から学ぶ」についても,有名な話があるのでまた紹介したい-石田)。
体育の指導者たちにかなり手厳しい。
「つまり,体育教育の雑誌も教育者も,同業者的狭さや,教材屋的狭さから脱却して,現代社会―その働く大衆―その子弟と悩みを分かち合う雑誌と教育者とになってほしい。
いのちを大切にするとはどうすることか,働く人間を形成するとはどんなことか。
体育における傾向性とは何か。
それはあるのかないのか。
私たちはそれらをききたいのである」(52頁)。
そして,最後に(S・A)と署名がある。
「はは~ん」。
ピンと来たでしょ。
「しろまるあきお」だね。
城丸さんは章夫を「ふみお」と読むが,ほとんどの人は「あきお」と読むだろう。
そして,Fは日本語では「ふ」にしかあてられないので,S・Fとか,F・Sでは,わかりやすすぎる。
いずれにしても,城丸さんは1955年から体育の論文を書いていたのである。
とにかく,体育界の民主化を訴えていたのだ。
そして,そのために実践記録を書くことを勧めていた。
城丸実践記録論が出てくるのは,僕の知る限りでは1960年のことだが,これはまた別の機会にしたい。
あと,大田堯,勝田守一らの実践記録論の中味についても別の機会に触れたい。
さらに,佐々木賢太郎さんの紀南作文教育研究会の機関誌『紀南教育』にはじめて出された文章は,『体育の子』にも載っていない。
このブログに載せて公開することも可能だ。
見たい人がいればの話だが。