体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

実践記録を書くことにかかわって

こんにちは。石田智巳です。

 

22日に大阪で話した内容は,23日に記事にしてアップしました。

僕は,ここ2年ほど教師の実践記録にこだわっていたということがわかりました。

こだわっていたと云うよりも,その重要性を認識していたというか,それが教師を成長させる「同志会的方法」なのだと思っていたと云うことです。

*同志会的方法というのはやや誤りですが,体育同志会でも主要な方法だということです。

 

今後,時間があるときには,「実践記録について」取り上げてみたいと思います。

もともと,このブログは『たのしい体育・スポーツ』の実践記録を取り上げようと思って始めたのですが,実践記録とはなにか?いつから出てくるのか?などについても取り上げたいと思うようになりました。

 

そこで,今日は今から2年前に書いた文章を採録します。

これは,体育同志会の京都支部ニュース『かもがわ』の2012年11月号に書いた文章です。

総会で突然,福川さんから「最新情報」を書けと云われて,「最新情報なんてありません」というタイトルでアンサーしたものです。

ここに,実践記録にこだわり始めたことが書かれています。

これは,もともと学生の卒論指導との関わりで書きました。

では,どうぞ。

 

10月13日の総会に出たら,「かもがわ」の計画がでていた。あまり気にせずに全体を眺めていたが,「締め切りが21日で2ページを書け」とのこと。「おいおい,そりゃないよ。没義道だ。」と思った。普通,思うでしょ?

 

文章は,何となく書きたいなあとか,気になっていることがあれば書きますよ。でも,「最新情報」とか言われると,「昨日うちのドジョウが2匹死にました」とか,「今日の1限は音楽マットの発表会です」とかか?そんな楽屋ネタを書いても仕方ないし。「日本がブラジルに0対4で負けました。」「ヤンキースピンチ」なんてことみんな知っているし。

研究の最新情報は,6日に若手のいない研究例会で絞り出して,それはおそらく口野さんがこの号のどこかに書いているだろうし。

「う~ん」。

 

と,ここで前に「かもがわ」に書いたものを見る。

そうそう,村上春樹のことを書いたのだった(7月号)。

「ふむふむ。相変わらず仮想読者を設定せずに,自分の頭の中の地図のようなものを書いている」と変に感心する。

よし,最新情報は「村上春樹ノーベル文学賞を逃した。」ことにしよう。

 

といっても,ここで村上春樹の世界性だとか,文学の位置づけだとか,小説の読み方に関する私の考えを開陳するということではない。

ただ,「村上春樹ノーベル文学賞を逃した。」という最新の話題から,あたかも「空気さなぎ」(『1Q84』 )が糸を紡ぐように,話を作り出すことにする。

だから,どこに向かうのかはまだわからない。

 

これは,まさに春樹のスタイルである。

どこかに書いていたが,モチーフが決まると,あとは勝手に話が展開されていくらしい。

というか,登場人物が動き始めるのである。

ねじまき鳥クロニクル』は,「スパゲッティをゆでているときに電話が鳴る」という一文を書いて出発した。

最初は短編小説『ねじまき鳥と火曜日の女たち』として発表されて,でも,その後書き足して3巻の長編小説になったという。

ノルウェイの森』も『蛍』という短編があったのだ。

僕も同じように最初の一文から話を紡いでいこうと思っているのだ。

というか,たいてい雑文を書くときには,そのような展開となる。

 

このこととかかわって,「考えというものが頭の中にあって,それを言葉で表現する」というのがまだ支配的な考え方かもしれないが,それは順逆が違うと卒論生たちに伝える。

彼らは,いろいろ考えて,何となく書きたいことはあるが文章にしない(できない)。

だから,とにかく文章にすることを指導するのだ。

 

彼らは考えたけど書けなかったという。

 そうではないのだ。

書いてみたら自分が何を考えているのかが,その時点でわかるのだ。

だから,書けないということは,その程度の思考しかないということなのである。

一生懸命文章にしてみて,それをもとに「なんか違うから書き換えよう」とか,逆説的だが,「オレはこんなことを考えていたんだ」ということが「後から」知られるようになる。

 

言葉が先なのだ。

 

だから,かつて書いた文章は自分の文章であっても,「へえ,そんなことを考えていたんだ」とか思うでしょ。内田樹は,書いたときと読んでいる今とでは時間的なズレがあるため,「そのときの私は,私であって私でない」という。

これもまた「動的平衡」(福岡伸一『生物と無生物の間』)なのだろう。

 

村上春樹の場合も,ライトモチーフや設定はあるだろうが,あとはワープロを打つ手が思考を生み出していくことを表現しているのだと思う。

気づいてみたら,Book3,単行本6冊分書いていたわけだ。

 

「たのスポ」11月号にも書いた(まだでていない)のだが,同志会では1960年頃に実践記録が書かれるようになる。

嚆矢は『体育の科学』8月号の伊藤高弘さんになるのだろうか?

だから,その頃から「子どもを大切にする」ようになっていく(会としては)。

実践記録は子どものことを書かざるを得ない。

だから,子どもを見ざるを得ないし,大切にせざるを得ない。

 

実践記録を書くということもまた,思考を表現するのではなくて,表現することによって見えなかったことを見えるようにする営為である。

だから,(文章)表現があって思考が生まれる。

その証左に,集団検討を積めば積むほど,内容が豊かになっていくし,自分がやろうとした実践や意図が表現されるようになる。

それができれば,ものの見方を手に入れることになり,次の実践につながっていく。こうして力量をつける。

 

佐々木賢太郎さん(知らない人は,『体育の子』を手に入れて勉強してください。売っていないけど)だって,生活綴方を始めたとき(1952年)には,仲間の先生から,「もっと生活的に書かんとイカン」と注意されている。

 

リアリズムに徹してリアルに書くことで,リアルにものを見ることができるようになる(当時は,「リアルに見ることで,リアルに書く」といっていたが)。

だから,子どもに日記を書かせて,「もっと詳しく書いて」と要求して生活を見つめさせるように,自分も綴って,綴り直す経験が必要になる。

「見えないから書けません」ではなくて,「書いてみれば見えるようになる」のだ。教師の成長の一つの方法はここにあるのだろうし,そうやって会自体がやってきた。かつては「体育の実践記録を読む会」というものがあった。how toもいいが,実践記録を書いて読む方がよっぽど勉強になる。

 

ノーベル賞を逃すと,実践記録を書けという話になる。

風が吹けば桶屋が儲かる」みたいだが,結局,自分が考えていることに落ち着くのである。

否,自分が考えていたことが表現されることで分かったのだ。

何にも最新情報ではなかったですね。

 

ちなみに,「ノルウェイの森」って,ビートルズの曲のタイトルで,「Norwegian Wood」といいます。

そんなことは知っていますよね。

でも,これは誤訳だといわれているって知っていますか?

Woodは森ではなくて,木とか家具という意味で,「北欧製の家具」というらしいんです。

歌詩を読むと,確かに「ノルウェイの森」よりは「家具」の方が意味がわかります。ところが,春樹はあえて「ノルウェイの森」という本のタイトルに使ったのです。じゃあ,英語に訳すとどうなるのだろう?

 

さらに,なんで「Norwegian Wood」なのだろうか。

これはジョン・レノンが「Knowing ○○ would」を最初使っていたけど,過激すぎるという理由でゴロが似ている「Norwegian Wood」にしたと,ジョージ・ハリスンがインタビューに答えていたと、村上春樹が言っていました。

 

ついでに,「1Q84」は英語に訳すと「1Q84」だけど,この駄洒落のような9とQは英語話者にはわからないでしょうね。

つまらないことに興味があるんです。

ホント。

*ちなみに「Q」は魯迅阿Q正伝と関係があるという指摘が,この8月に毎日新聞の記事でなされていました。

 

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