体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

系統指導とグループ学習の統一3 うまい子こそが困った存在!?

こんにちは。石田智巳です。

 

昨日は,小山さんの実践『たのしい体育・スポーツ』2008年8月号を取り上げました。

昨日取り上げた部分は,さわりの部分(1ページ)です。

残りの3ページは,小山さんと生徒たちとの,あるいは小山さんとバレーボール(バスケットボール)との格闘が描かれています。

僕がつまらぬ解説を加えるよりも,ぜひ読んで味わってほしいと思います(ほしいけど手に入らない場合は,連絡してください)。

 

今日は,昨日の続きで「うまい子」の問題を取り上げてみたいと思います。

では,どうぞ。

 

今日取り上げるテキストは,拙稿『たのしい体育・スポーツ』2007年8月号の「ボール運動の授業の難しさと私たちの指導-『上手い,下手』関係の組織を中心として-」である。

 

全部を取り上げることは難しい(ブログに紙幅の都合はないが)ので,何が書かれているのかを簡単に紹介し,ポイントとなる部分を取り上げてみたい。

 

「はじめに」は,全文を載せる。

『体育の授業でボール運動を扱う難しさは,人間関係を組織する難しさに尽きるといっても過言ではない。

技術習得の難しさや,作戦を成功させる難しさもあるが,それらの学習の成否を大きく左右するのが人間関係なのである。

ここでは人間関係を「上手い,下手」の関係に限定している。多くの部活動や学校外で行われるスポーツは,やりたい人が集まって技を磨き,その中からより上手い者が選手として選ばれることに概ね同意して行われているものである。

それに対して,好きだろうが嫌いだろうが関係なく全員が学習する場である授業のなかにも,そういった価値観が持ち込まれることからこの難しさはくるのである。

本稿では,「上手い,下手」という人間関係に関わったボール運動の授業の難しさを取り上げ,それに対してどのように乗り越えていくのかについて事例を元に示していきたい。』

 

次に,体育同志会の「上手い,下手」観として,出原泰明さんの論文を引用した。

ここでは,省略する(出原泰明『異質協同の学び』,創文企画,2004年,85-86頁参照のこと)

 

出原さんは,さらに,上手い,下手に対する見方,考え方の変革は,うまさの「逆転現象」を子どもたちに気づかせることによって可能になるという(出原泰明『体育の学習集団論』,明治図書,1986年,38頁)。

 

その「逆転現象」をデータを元に見せてくれたのが大貫耕一さんの論文である(大貫耕一「子どもの他者認識」,中村敏雄編『スポーツ文化論シリーズ⑥ スポーツコミュニケーション論』,創文企画,1995年,175-211頁)。

個人的にはこの論文は結構好きだ。

読むのは結構大変だけど。

内容は紹介しないが,「逆転現象」が書かれている(ほしい人は,大貫さんに云ってください。あっ,僕でもいいです)。

 

さて,僕の論考のポイントは次のところにある。

 

技能的上位者こそが困った者!?

 

『ボール運動において,このような上手い,下手に関わってさらに難しい問題もある。

むしろ上手い子の存在がチーム全体の発展を阻害している点に,子どもたちや教師が気づいていないという問題である。』

 

僕は,中等の保健体育の教育法の授業では,3時間だけバレー(ソフトバレー)をやっていた。

1時間目はスコアの付け方と,スコアを元に「バレーらしさ」と目指すバレーを確認する。

2時間目は,以下の通り。

 

『大学生の例で恐縮であるが,筆者はバレーボール(ソフトバレー)の授業において,大学生にとっても強固な「上手い,下手」観を変革するために,「(三段攻撃のうちの)2回目にセッターがボールに確実に触るにはどうしたらいいか?」という課題を出すことにしている。

実際にチーム毎にやりながら考えさせて発表させるのである。

このときに一番多い解答は「正確にレシーブする」という「つまらない」ものである。

中略

 

この課題で考えさせたい内容は,「二人のコンビネーションを成立させるためには,レシーバーの努力だけではなく,セッターもまた拾うための努力をしなければならないし,それ以外の全員の協力が必要だ」ということである。

そのために私が用意している答えは,①セッターがネットよりもコート中央に近いところに立ち,どんなボールも拾いに行くことを原則とすること(ネット近くに立つとレシーブのボールがネットを越えやすい)。

②レシーバーはセッターに渡すというよりも,ある程度高さのあるレシーブすることを心掛けること。さらに,

③レシーブされたら両サイドのアタッカーはコートの外に出てコートを広く開けておくことである(これは次のスパイクに備えることでもある)。

 

聞けば当たり前なことであるが,揺さぶりをかけてやらない限り,大学生でも気づくことはほとんどできない。

特にアタッカーがバレーボール経験者または技能的上位者であったら,セッターのカバーにいってやろうという気持ちが働き,2回目のボールでも触りに行こうとする。

アタッカーが技能的下位者や未経験者の場合もまたコートを開けないため,ボールを取りに行ったセッターとお見合いのような恰好になる。

技能的上位者がボールに反応して一歩でもボールに向かって足を動かせば,技能的下位者のセッターは遠慮する。

そういうカバーの気持ちは,基本的にカバーを「たとえいいところにレシーブできなくても,みんながそのボールをつないでやるんだ」というものではなく,「失敗したら可哀想だし(相手チームの点になるので),僕(わたし)がつないでやろう」という「傲慢さ」となってあらわれるのである。

こうして,技能的下位者がボールを触る機会を奪われ,ますます「下手にさせられていく」のである。

そのためだろうか,だったらむしろ「邪魔にならないお客さん」を選ぶことになるともいえるのである。

 

このような事例は,他にいくらでもある。

バスケットボールでは,作戦の練習をしていても,「臨機応変が大切」とでもいいたげに,作戦にはないドリブルシュートを決めてしまうことや,ゲームの出場機会も上手い子が勝利を優先させるためにか,多くなる。

これらのことは,「技能差がある以上,対等・平等ではない」と宣言しているようなものである。もちろん,技能的上位者がすべて困った者ではないが,これらが冒頭で述べたスポーツ的な価値観が授業にも持ち込まれた結果なのである。

つまり,技能的上位者がチーム全体の原則を崩していくことになり,結果としてチームの発展を阻害するのである。』

 

だから,うまい子への指導が必要になるのだが,僕の授業では,実際にやってみて,終わった後にこの文章を一緒に読むのである。

そしたら,あるときに本当に鋭角的に問題が出てしまい,授業の雰囲気が本当に悪くなってしまったことがある。

たぶん,意図からすれば成功だったのだろう。

昨日の文章で小山さんは,「現場教師はこういうことにめげてはいられない」(2008,28頁)と書いていたが,僕はめげてしまった。

次の年は1時間だけデータの取り方とバレーボールらしさ,そしてルールの考え方をやったが,今はもう実技はやめてしまった。

 

さて,僕が要求する「2回目のボールをセッターが確実に拾うにはどうすればいいか」という問いは,技能レベルではなく,認識レベルの問いだ。

しかし,バレー経験者や現役の部員が,技能レベルの話にしてしまうためにうまくいかないのだ。

 

そのために,僕は,得点での勝敗に加えて,三段攻撃率(三回攻撃率)=三回攻撃数/ラリー数を出させて,それも評価ポイントに加えると告げる。

 

負けても質が高いバレーだった。後は技能レベルを上げること。

勝っても質が低いバレーだった。後は認識レベルを上げること。

 

さて,昨日の小山さんもバレー,僕の実践もバレー,そして体育同志会の優れた実践群のなかでも至高の輝きを放つ実践の一つである宮城の矢部英寿実践もバレー。

 

いったい,バレーボールって何だ?

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