体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

系統指導とグループ学習の統一2  『たのスポ』小山実践を読む

こんにちは。石田智巳です。

 

昨日のブログでは,今日は別の話を書くといいましたが,予定を変更して昨日の続きです。

系統指導とグループ学習の統一というタイトルで,上手い子と下手な子の関係について書きたいと思います。

今日は,長野の小山吉明さんの文章「男女共習にこだわり,スポーツ観の変革を問う授業」(『たのしい体育・スポーツ』2008年8月号,26-29頁)を読みたいと思います。

そのなかでも,バレーボールの授業で,僕が学生に考えさせている内容を紹介します。

では,どうぞ。

 

小山さんの実践記録は,僕の授業にはかなりの頻度で登場する。

カリキュラムづくり,生徒会活動で子どもたちの学校におけるスポーツ生活を充実させる話,教材や教具の工夫などである。

 

この話で小山さんは,新しい学校に赴任して、男女別に行われていた体育の授業を,なんとか1,2年生で男女混合にすることにできた。

 

 まずは問題。

以下の文章を読んで,何で小山さんは「あれは差別だよね」と云ったのか?を読み取ってほしい。

 

「A先生は私の考えをかなり理解してくれたと思ったので,その先生の2年生の授業を見ながら少し話をした。

そのクラスにはバレー部のエースB君がいる。

B君は試合の時になるとバレーの苦手な同じチームの女子には全くパスを送らず,相手コートへ返していた。

私は『あれは差別だよね・・・』といった。

この指摘にA先生はカツンと来たようで溜まったものをはき出すようにしゃべり始めた。

『B君は練習の時は女子とも一生懸命パスしている。試合では勝たなければダメだ。だから彼が試合で女子にパスを送らない行為は当然だ。

お情けでパスを送るようならバレーじゃない。

勝つために1回で返すことだっていいことだ・・・』。

そして『2年生では男女混合でやったけど,この生徒たちが3年生になったら男女別にしたいと思っている』と。

私はバレーの学習内容がまだ理解されていないことを感じたが,授業中でもあり,反論はやめておいた。」(小山,26頁)

 

僕は教育法の授業で,この文章を学生に与えて,「なぜ小山先生は,『あれは差別だよね』といったのでしょう」と問うている。

学生は,一生懸命考えて,「授業のバレーボールはみんなでやるものだから」,「平等にやらなければならないから」という答えが多い。

 

こういう答えがつまらないと思うのは,「あなたたちが球技をやったときには,そんなこと一つも思ったことないでしょ」と突っ込みたくなるからだ。

実際突っ込んだらムッとするであろうから,突っ込まない。

 

これに対する小山さんの答えは以下の通りだ。

「試合で勝ちたいのは当然であり,お情けでパスを送れと言っているのでもない。

試合で勝つために,試合中に女子にパスを送らないのなら,なぜ練習中にはパスを送るのか?

そういうやり方で試合に勝つための練習なら,練習でも彼女にボールを送るべきではない。練習の時にチームとしての返球コースを決め,そこへパスを送る練習をしていれば,試合でも彼女はパスを送ってくれると思って待っている。

それを無視して勝手な試合をしているから私は差別,人権侵害だと言っているのだ」(同頁)。

 

小山さんの苦手な子への優しさが反転して,上手な子への厳しさとなって表れている。

戦術学習が難しいのは,チームでやる戦術の認識があり,それを練習して,ゲームで試すわけだが,ゲームは勝敗がつくので,学習した戦術を使うよりも,勝ちを優先させるためにリスクを減らすことを優先しがちだ。

B君の問題だけではなく,A先生の問題でもある。

 

このことも,実は中川さんがいう「技能レベルの高い子の意見をみんなが聞くという関係ではうまくいかないのではないか」という問いかけにあてはまる部分である。

技能レベルの傾斜が,球技(ボール運動)では,少なからずうまくいくわけではないという好個の適例である。

むしろ,うまい子がチームの戦術行動を阻害しているのだ。

 

この授業は,小山さんの授業ではないので,グループの指導がどのように行われているのかはわからない。

しかし,おそらく技術指導にかかわるグループ学習は,小山先生がやられているやり方とほぼ同じだと思う。

 

問題は,技術指導にかかわるグループ指導だけでない指導,つまり,グループ学習を成立させるためにどんな指導がなされているのかというところにある。

A先生のバレーボール観や学習観を見る限り,そこへの指導はなされていないと思うが。

 

さて,小山さんの考えには重要な前提があるのだ。

それは,なぜ男女共習なのか?男女共習の方がうまくいくのかどうか?にかかわる。

 

小山さんは,男女共習こそが,「共生を目指す教育の方向」だという。

 

「しかし,男女混合の授業は必ずしもうまくいくというものではない。それは異質集団の難しさであり,醍醐味でもあるが,平行して勝敗重視のスポーツ観の変革を問う学習内容の設定がぜひ必要であると考えている」(同頁)。

 

だから,男女共習も,それを含めた異質共同の学びも,とりわけ球技(ボール運動)の場合は,特に難しいのだ。

そのため,小山さんが学習内容という意味での「勝敗観」,「能力観」が問い直されるような教科内容と,具体的な方法が用意されていなければならないのだ。

 

異質協同にしたからうまくいくわけではない。

単に仲良くやりなさいといったって,できない。

道徳的方法(人格形成プログラム)であれば,子どももやるかもしれない。

しかし,それは評価されるからやるのであって,内発的な動機にもとづくものではない。

 

この場合であれば,「試合に勝つ」以外に,共生するための「何か」が挟み込まれる必要がある。

それは,単純に「班あるいはクラスの目標と,練習や試合の内容を振り返らせる」ことでもいいかもしれない。

その場合でも,ムードの振り返りにならないために,データがいる。

全員がスパイクを決めることや,それをポイント化して勝ち負け以外に評価することでもいい。

 

ここには,やはり技能差が大きくなる中学生の指導には,技術指導以外の工夫が必要だということを示している。

 でも,これについては,同志会以外の中学校レベルではあまり顧みられていないような気もする。

 

以前,中学校の体育教師が集まっている場で,このような話をしたことがある。

そのときに,「でも,上手い子は上手い子同士でやりたいと思っているし,苦手な子は苦手な子同士でやりたいと思っている」といわれてしまった。

 

そのときに,とりわけ球技の場合は「そういうところもあるんだろうなあ」と思ったりもした。

でも,共生する楽しみを知らない子どもたちは不幸だ。

 

それよりも,そのときに思ったのは,本当は,「上手い子は上手い子同士で,苦手な子は苦手な子同士でと思っているのは,先生,あなたの方なんじゃないですか?」ということだ。

なにしろ,男女共修,異質協同は難しいのだから。

単に「うまくなる」という目標だけでは難しいのだから。

そういう,突っ込みも入れたかったが,やめておいた。

 小山さんがいうように,「学習内容」が理解されていないということだろう。

 

前(8月7日)に,中村さんがいう技術指導「と同時に」指導している何かがないということでもあろう。

 

 もう少し,事例を挙げて考えてみたい。

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