「『スポーツ庁の設置』と学校体育の行方を考える」を読む
こんにちは。石田智巳です。
今日は,『体育科教育』8月号の佐藤豊論文「『スポーツ庁の設置』と学校体育の行方を考える」を読みます。
高校の保健体育は,唯一の必修教科です。
それが,必修解除の動きがあるとも漏れ聞こえてきます。
学校体育はいずこに?
では,どうぞ。
2020年の東京オリンピックの開催は,日本のスポーツ界の一つの節目となりそうだ。
2010年に民主党政権下で「スポーツ立国戦略」(文科省)が出された。
その前には,自民党の「戦略」も出されていた。
こちらは,『現代スポーツ評論』(創文企画)(今,手元にないので何号かは忘れた)で,友添さんたちが遠藤利明氏にインタビューをしていたので覚えている。
インタビューを読む限り,国民の生涯スポーツを振興するのではなく,明らかに競技スポーツを振興していた。
つまり,競技スポーツにお金をつぎ込むということである。
そして,その余沢を残りの国民に与えると考えていた。
あるいは競技スポーツでメダルを取ることで国民を元気にする,スポーツをやりたいという子どもが増える,というかたちで国民に還元しようとしていた。
当時は(今も),アスリートのセカンドキャリア問題が議論されており,プロスポーツ選手やオリンピックで活躍するアスリートを地域や学校に還元するということである。
いずれにしても,この「スポーツ立国戦略」において,「スポーツ省(庁)の設置に取り組む」ことが書かれた。
そして,2011年には「スポーツを通じてすべての人々が幸福で豊かな生活を営むことができる社会」を謳った,「スポーツ基本法」が成立した。
2012年には,基本法をベースとした「スポーツ基本計画」が文科省から出された。
*これらの文書は,web上で閲覧可能。
そして,2013年9月に,東京オリンピック2020が決定する。
その後,11月に「政府が2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催に向け,スポーツ庁を文部科学省(文科省)の外局として創設する方針を固めた」という新聞報道があった。
さらに,今年の6月20日には,プロジェクトチームが出した「国が一元的に管理する案」にJOCや各競技団体が反対して,案は承認されなかった。
それでも,秋の臨時国会にスポーツ庁設置法案が提出され,4月の設置を目指すことにはかわらない。
それを受けた形かどうかはわからないが,この佐藤氏の論文が出て来たことになる。
受けた形だとすれば,かなり短い時間で書いたことになるだろう。
『体育科教育』誌は,8月号といいながらも,7月中旬には手元に届くのだから。
早すぎるし,違うかな。
いずれにしても,2020年の東京オリンピックの年には,おそらく新学習指導要領が,少なくとも小学校で動き出すことになりそうだ(「『21世紀型能力』とは何か」を読む 参照)。
こういう一連の流れを念頭に置いて,論文を読んでいきたい。
さて,この論文は,1オリンピックとスポーツ振興策,2学校体育とスポーツ振興,3学校体育の行方,4まとめ,からなる。
1では,東京オリンピックまではスポーツ振興に予算が付くだろうが,問題はその後,予算縮小を余儀なくされることが書かれる。
そのことを見越して,2012年のロンドンオリンピックまでの政策と,そこからトータルで何を学ぶべきかという問題提起がなされる(が,具体的には検討していない)。
2では,まずスポーツ庁を文科省の外局に位置づけることについて,予算(カネ)の側面から見て,妥当であるという。
「理想を求めつつ実現性からの決断が求められる」。
わかる気もする。
次に,学校体育とスポーツ推進について。
イギリス,フランス,ドイツ,アメリカ,オーストラリア,韓国などでは,スポーツ振興と学校体育とは別の省庁にある。
そして,日本の場合,これら両者ともに文部科学省の統轄下にある。
ある意味,特殊日本的事情であるという。
僕は,かつて和歌山県の教育史を執筆したが,そのとき調べていてなるほどと思ったことがあった。
それは,国(文部省)が学校体育とスポーツ振興の両方を担うように,県の教育委員会もこの二つを担っていた。
そのことに,「なるほど」と思ったわけではない。
日本の場合,スポーツが国民のものになるは,戦後のことである。
戦前の体操科では,体操と遊戯が教材に位置付いていた。
野球をやるのは,旧制中学校や大学,などの一部エリートに過ぎない。
なにしろ,アマチュアリズムという名の身分差別があったから。
それが,戦争が終わって,スポーツが学習指導要領に位置付き,学校で教えることになったのだ。
もちろん,アマチュアリズムはまだ残っていたが,それはオリンピックなどの大会にプロが出場しない(できない)という意味において。
しかし,戦争が終わったときは,想像力をたくましくすればわかると思うが,日本は四等国となってそれどころではなかった。
なにしろ,食糧不足であったのだ。
学校で運動すると腹が減るので,させてほしくないという親の願いもあった。
校庭は畑と化していて,運動をしたくてもできないという状況もあった。
だから,栄養と衛生の指導が行政主導でなされる必要があった。
戦後日本の経済が,社会主義的に国の管理下で進められるなか,国民の栄養や体力についても,社会主義的に国に管理される必要があったのだ(と思う)。
悪い意味ではない。
そうして,戦後復興とともに,スポーツが学校を中心に始まっていく。
文化の中心が学校にあった以上,それは仕方がないことであった。
が,いつの間にかそういうものとして,位置付いてしまっていた。
そして,佐藤氏はそのことによって得られたメリットをあげる。
それが,やはり予算(カネ)なのである。
ここら辺は,教科調査官をされていたという佐藤氏だけあって,実状を知り尽くした上で書かれている。
例えば,教育課程は「初等中等教育局」で扱われるが,保体の教科調査官は「スポーツ・青少年局」に所属することになる。
そのため,予算枠が別になり,会議が他の教科よりも「柔軟かつ多様に」実施できたという。
今後,スポーツ庁に学校体育を位置づける際には,「これまでのように,教科全体の改善の方向性との調和という視点が薄れることを防ぐ仕組みを構築しておくことが必要であろう」と佐藤氏は述べる。
ただ,現在の「21世紀型能力」だとか,「資質・能力論」は,PISA型学力など,知識基盤社会で自由に経済活動を行う個人が想定された能力であって,そこには体育・スポーツを行う個人は想定されてはいない。
だから,そこから体育で形成すべき資質・能力を独自に,しかし21世紀型能力に照らして,考える必要がある。
もし,佐藤氏が指摘するように,ここがうまくマッチしないと,「体育は要らない」となる可能性も出てくる。
あるいは,体育は体力のみとなりかねない。
現在,高校のすべての教科で唯一必修である保健体育科は,その意義がなくなるのである。
かつての大学体育の大綱化と同じことになる。
そのときに,一方でスポーツ庁におかれれば,体育あるいは部活動の存在意義は大きくアピールできるだろう。
その代わり,体育授業や部活動が競技スポーツの下請けになることは否めない。
しかし,それでも予算は他教科に比べれば潤沢にある。
「理想を求めつつ実現性からの決断が求められる」のではあるが,生き残りのために,あるいは,カネのために魂を売ることは避けたいところである。
さて,社会主義的に国が主導ですすめてきた経済は,80年代の中曽根さんの頃から新自由主義的な政策に変化してきた。
僕が大学に入るころに,ウイスキーの値段が安くなったのを覚えている。
経済の仕組みはわからなかったが。
民営化が進み,競争力があがって,企業がお金を貯め込み,それをゴッホの「ひまわり」や外国の映画会社,不動産を買いあさったところで,バブルが崩壊した。
それでも,アメリカの要求に従って新自由主義政策を進めた。
それによって格差が生まれた。
体育も同じ轍を踏むのではないか。
これまで平等にスポーツ政策をやってきたが,競技力向上のために,学校体育はスポーツ庁に位置づく。
やりたくない人はやらないでも結構といえるように,まずは高校で必修をはずす。
そうして,ますます二極格差に拍車がかかる。
考えすぎであることを祈ろう。