内田樹ほか『街場の五輪論』を読む
こんにちは。石田智巳です。
今日は内田樹,小田嶋隆,平川克美『街場の五輪論』(朝日新聞出版,2014)を読んで考えたことを書きます。
では、どうぞ。
内田樹『街場の○○論』は,たくさん出ているが,ほぼ読んでいるような気がする。
と思って,本屋のページで検索してみると,そんなに読んでいないことがわかった。
教育論,大学論,メディア論,アメリカ論,読書論,共同体論ぐらいか。
僕は,3ゼミの終わりか4ゼミのはじめ,いわゆる就活が始まる頃に,必ず『街場のメディア論』(光文社新書)のある部分を学生に配布して読ませる。
そこには就活における「自分のやりたい仕事」ということの意味を問い直させるきっかけがある。
詳細は述べない(いつか述べるかもしれない)が,そのことで,今年卒業して一流とされる食品関連の企業に就職が決まった学生から感謝された。
僕も含めて,多くの人は「こんな仕事がやりたかったわけではない」ということを,結構抱える。
やりたい仕事はあるが,それ以上にやりたくない仕事や,でもやらなければならない仕事がある。
それはどんな仕事をしていても同じだと思う。
だから「やめる」のではなく,だから「やりたくない仕事にどう向き合うのか」と考えた方が早いわけである。
彼はおそらく,面接で「それができる」というようなことを述べたのだと思う。
さて,その「街場」シリーズでも,この『五輪論』は,三人の鼎談という形で収録されているという意味では珍しい。
正直言って読んでみて,あんまり精神的なドライブ感は得られなかった。
予想していたことではある。
内田さんの文章は,書きぶりと内容が合わさって,すごいドライブ感が得られるときがある。
ドライブ感というのも,内田さんが使った言葉だが,うまく表現はできない。
敢えて言うならば,「ランニング・ハイ」とか,「ランナーズ・ハイ」というのに似ている。
走っていると,あるときに高揚感というか,ポジティブ感というか,頭がクリアになって,やる気が出てきていることに気づく。
そういう感じ。
でも,この本を読んでもあまりそうならなかったのは,ひとつは語り口調だからだ。
やはり口語は文語とは違う。
もう一つは,内容が何となく想像がついたからだ。
例えば,内田さんの『昭和のエートス』(バジリコ,2008)という本には,「北京オリンピックが失うもの」という話がある。
そこには,「東京オリンピックによって日本社会が失ったもの」について書かれてある。
その失われたものは,日本の風景であり,敗戦後の日本人の喪失感とか脱力感とかである。
日本人が再び一丸となって,邁進しようとしたイベント,それが1964年のオリンピックだったという。
オリンピックの問題を考えるときに,その目的との整合性,招致の仕方,環境問題,メディアの報道の仕方などのスタジアムの外側の問題と,競技が行われるスタジアムの内側の問題がある。
内側とは,技術・戦術などプレーや勝った負けたということ,勝利至上主義による弊害,ドーピングや,フェアプレイに反する行為,観客が引き起こす問題,だとかのことである。
内田さんたちは,スポーツに興味がないからか,この内側についてはあまり問題にしない。
外側の問題がとにかく語られる。
なかでも,一貫して批判的に語られるのが,「カネ」の問題である。
オリンピックを開催する理由は「カネ」。
ナショナリズムよりもカネ。
カネのためにはデモクラシーをやめる。
先日も,集団的自衛権はカネのためだった にも書いたが,カネのためには福島を見捨てる。
そのために,嘘の発言をする。
その割に,国立競技場の建設というカネの無駄がある。
さて,印象に残った点をいくつか述べてみたい。
ひとつは,マドリード,イスタンブールを破って,東京が選ばれたのは治安がいいからという件である(33頁以降)。
実は,招致派と改憲派はほぼかぶっている。
しかし,だからこそ,彼らは招致成功を平和憲法のおかげとはいわない。
「でも誰が何といっても,オリンピック招致の成功をもたらした最大の功労者は九条と,それによって保たれた戦後日本の平和という歴史的事実なんだよ」(35-36頁)。
オリンピック招致に成功したら憲法を変える,とはならなかったが,集団的自衛権の解釈変更を行った。
そしたら,北朝鮮は,7月13日と14日に日本海に向けてミサイル発射した。
なんとなく嫌な予感がするなあ。
オリンピックは平和の祭典なのに,というか平和の祭典だから,テロや戦争や,紛争のようなことがそのときにあわせて起こるから。
考え過ぎかな。
もう一つは,映画『昭和残侠伝』の話である。
この映画(シリーズ)は好きだ。
ストーリーをざっくり言えば,高倉健扮する花田秀次郎とその一家が,新興ヤクザに嫌がらせをされるのだが,最後に一人で(たいていその新興ヤクザに世話になっていた池部良とともに)殴り込みをかけて,親分を斬るという設定の映画。
「親分さん。死んでもらいますぜ」ってやつ。
なお,最初の話で高倉健さんは寺島せいじ(寺島の島を「じま」と読むのが関東風だ)という役名。
池部良さんは,最初の話では,「姓はカザマ,名はチュウキチ。家業,昨今の駆け出し者でございます。以後,万事万端よろしくお願いなんして,ざっくばらんにおたのみ申します」という。
これがいい。
話を戻そう。
これは,内田さんに言わせると,小さな義理と大きな義理の戦いなのだそうだ。
小さな義理とは,ヤクザ一家が自分たちの庭場で商売している人たちに対する義理であり,そこでは組の者は,自分の利己心をおさえてその人たちに滅私奉公する。
一方,大きな義理とは,国益とか愛国心だとかのことであり,たいてい新興ヤクザが持ち出す言葉。
「大きな義理を掲げる人間は実は私利私欲だけで動いており,小さな義理に殉じる人間だけがほんとうに公共的なのだ(中略)。だから,『御国のため』という反論しがたい大義名分を掲げてきて,あれこれ指図がましいことを言うやつらを絶対に信用するな」という激しいメッセージが込められている映画だ,と内田さんはいう(145-146頁)。
オリンピックによる国益という大きな義理を掲げる人たちの目論見は何?
集団的自衛権も「御国のため」だった。
彼らの私利私欲とはなんだ?
そして,国民に求める滅私奉公は?
最後にするが,小田嶋隆のコラムがいい。
ここには,上述のようなことで,オリンピック招致に関わったおかしさを指摘した小田嶋さんではあったが,64年の東京オリンピックをテレビで見たときのことを懐かしそうに思い出す。
そして,顔を赤らめるようにして次のようにいう。
「・・・,自分ながら情けない傾向だとは思いつつ,それでも五輪のあのマークを見ると,やはり心ときめいてしまうからだ。内心を満たす晴れがましさの大部分が,愚かな錯覚に過ぎないことを十分に自覚していながらそれでもなお,だ」。
これについては,それでも眠い目をこすりながらもついつい見てしまうあのイベントの魔力を僕も知っており,小田嶋さんが照れくさそうに告白する気持ちはよくわかる。
これから、どんなことが起こるのだろう。
歪みや,ひずみだけでないことを祈るだけだが。
何かあったら,「親分さん。死んでもらいますぜ!」となるのか。
誰がやるの?
他力本願だ。
まさか周辺諸国が?
被害に遭うのは国民ではないか。
考え過ぎないようにしよ。