体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

『たのスポ』7.8月合併号を読む4-花田実践を読む

こんにちは。石田智巳です。
 
今日も、昨日に引き続き『たのスポ』7.8月号の実践を読んで考えたことを書きます。
 
今回取り上げる実践は,「こんな持久走の学習はどうですか」という花田純香実践です。
持久走は、僕の運動文化実践であるマラソンに近いので、楽しみに読みました。
では,どうぞ。
 
 
今、各県では小学校における駅伝大会が盛んである。
和歌山でも郡市対抗の駅伝をテレビでやっているのを見たし、京都でも「大文字駅伝」が行われている。
 
ちょっと脱線する。
おそらくではあるが、京都と奈良の人ぐらいであろう。
大文字をダイモンジと読むのは。
僕はこれをオオモジと読む。
しかし、オオモジ駅伝では意味不明である。
 
この小学生の駅伝に対しては、いろいろ問題も指摘されているようだが、行われていることが現実。
この現実からスタートして、小学校でも持久走の授業をする。
このともすれば子どもの嫌がる持久走を,いかに興味を持って、しかも成果をあげるように学習するのかが課題である。
ここには,花田さんの問題意識が明確に書かれている。
 
普通,持久走は,競技でいえば中長距離走にあたるので,タイムの速いあるいは着順の先の者が勝つ。
それを競う競技だから。
 
しかし,その出来高を競うことは授業にはなじまない。
なぜなら,生得的な能力,あるいは,学校の外で身につけた能力を評価することになるからだ。
教科である以上,教えたことに対して評価はなされるべきであり,だから,何を教えるのかが鋭く問われなければならないのである。
 
ペースランニングは、一定ペースをみつけて、そのペースで走り切る、走れたらペースを上げることを狙うというものだ。
速い,遅いを問うても仕方がない。
が,自分のペースを見つけることは全員に共通の課題となる。
そして,これはまさにマラソンのトレーニングそのものである。
 
僕も毎晩、ペースが速い日も遅い日もあるけど,基本はペース走をやっている。
ゆっくり走るジョギングだって、ペース走なのだ。
花田さんは、「おしゃべりランニング」を位置付けている。
これも同じだ。
 
頑張るのは、力一杯走るというだけでなく,ゆっくりのペースを維持することに全力を尽くすというのもある。
なにしろ、LSD(Long Slow Distance)をやると焦れてしまって、ペースを上げてしまうことがあると聞く。
しかし,速く走ってしまうとトレーニング効果は半減する。
 
花田実践は、ただただペースを維持して走るだけではなく、仮説を立てて、調べたり実験したりしながら、子どもたちに自分の走りを設計させていく。
「子どもたちを研究者に育てる」という,体育同志会にしばしば見られるスタイルの授業だ。
でも,小学校で言うと・・・1973年の枚方の実践以来か?
そんなわけはないかな。
いずれにしても,めずらしいかもしれない。
 
さて、ペースランニングではない持久走の授業を考えてみれば、ただ長距離を走って、知らずしらずに持久力をつけるというものか。
まさに発達刺激としてのランニング。
 
2000年頃から,体力低下のキャンペーンとでもいうべき事態が起こっている。
子どもの体力が低下したから,なんとかしないといけないという危機をあおるパターン。
 
日本の教育行政というか政治家は,すぐにそういう発想をする。
政策的に,学力低下や体力低下を起こすような仕組みを作っておいて,仕組みを批判せずに現場を批判する。
また脱線しかけたので戻ろう。
 
そのため,昨今では,特に中学校においては,体育授業の前に補強運動のようなものをさせることが多い。
そこで,校庭を走らせることになる。
 
いつも登場させて申し訳ないが、村上春樹は次のようにいう。
 
「走ろうと意欲のない人間に,あるいは体質的に向いていない人間に,頭ごなしに長距離を走らせるのは意味のない拷問だ。無駄な犠牲者が出ないうちに,中学生や高校生に画一的に長距離を走らせるのはやめた方がいいですよと忠告したいんだけど,まあそんなことを僕ごときが言っても,きっと誰も耳を貸してはくれまい」(『走ることについて語るときに僕が語ること』,72頁)。
 
僕は耳を貸しますよ。
 
新潟大学山崎健さんも「体力ってなあに?」という論考で,同じようなことを指摘している(『たのスポ』2006年3月号,20-23頁)。
ヤマケンさんは,まず持久的能力の発達の大切さをキチンと指摘する。
 
そのうえで,「嫌な運動への低い糖動員性(エネルギー生産機能)は防衛反応としての意欲低下(不快感)を招く」とも述べている。
つまり,本来は,子どもの運動生活をどうするのかという問題なのである。
にもかかわらず,体育授業で無理矢理「マラソン」をさせることで,持久的能力をつけようとすれば意欲が下がる。
このことに疑義を唱えているのだ。
 
体育の授業は,スポーツを教材として扱う。
スポーツは競争を本質にもつ。
しかし,競争は競技の勝敗を決める形式(速さや得点)だけではない。
美しさだって,みんなの協力度だって,うまさだって,競うことはできる。
 
むしろ,競技が要求する競争の形式に限定するから,学年が上がるにつれて体育ギライが増えるのだろう。
 
だとすれば,何を競うのか。
何を評価するのか。
そして,先に書いたように,何を教えるのか。
どのように学習させるのか。
 
こういった工夫が求められる。
 
花田実践はその一つの形である。
 
 
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