体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

子どものつまずきから授業をつくる。
公民編
 

月曜日の「(教)学校教育演習」は,学生が自分の履修している教科・科目(国語,社会,地歴・公民,英語,情報,保健体育)ごとに分かれて発表を行った。お題は,その教科・科目で「子どもはなににつまずくのか,そのつまずきをどう乗り越えるのか」である。

 
「水泳では,息を吸っているつもりでも吸えていない。」
「加減法では,繰り上がり,繰り下がりができない。」
「理科では量の保存ができない。」
 
などなど,割とはっきりしているものと,そうではないものがある。
社会科は,体育や音楽のように「できるか,できないか」がはっきりする科目ではないからつまずきを指摘することは難しいという。
 
しかし,現実に子どもが嫌いになるのは,「できないから」「わからないから」だけではない。
「これを学ぶことにどんな意味があるのかがわからないから」という理由もあるだろうし,「やらされるとしか感じない」だとか,単純に「面白くない」というのもある。
 
情報科の学生は,子どものつまずきは,単なる機器操作の問題だけではなく,なまじ使えるようになることでSNSの罠にはまる子どもたちがいることだと指摘した。
う~ん。マンダム。
 
実際に発表してみて,インパクトがあったものに手を上げさせたら「英語の文法」が圧倒的な勝利。
これについては別項で。
 
最後に,公民科の発表があった。
私は実は公民が最も大切な科目なのではないかと思ったりしている。
今の自分としては,広い意味でのドイツの歴史に興味があるのだが,科目としてはやはり公民(次に保体ということで・・・)。
 
なにしろ,公民というのはまさに「あなたが社会で生きる」そのことに関わる教科だからだ。
そして,小・中にあって高校にないのが道徳の時間であり,それは高校では公民科が扱うという建前にもなっているのだ。
 
自分が高校のときに,政治の仕組みについて学んだり,倫理についてもよくわからないながらも学んだ覚えがある。
しかし,まさに衆議院の定数だとか,被選挙権のある年齢だとか,そんなことを勉強したぐらいしか覚えていないし,今は「違いがある」ぐらいにしか覚えていない(公民としてバツですね)。
結局,私にとっては,テスト対策用の暗記科目でしかなかった。
でも,嫌いではなかったのは,努力量と相関してテストの点が取れるからか?
 
学生の発表そのものが面白くないというのではなく,途中から自分の考えが頭の中を巡っていて,彼らの発表はあまり覚えていない(失礼)。
 
授業の終わりに私の考えを開陳した。
「政治を教えるのであれば,『自分の権利が侵される恐れがあるときにどう振る舞うのか』という「問い」が,先行して投げかけられなければならないのではないか」。
集団的自衛権の問題や憲法9条の問題,福島の問題でもいいが,もっと身近に「自分の家のそばの信号が見にくいとき」とか,「カーブミラーがほしいとか」,「失業したとき」でもよい。
リアルな想像力が求められるほどよい。
私は社会科の専門家ではないが,おそらくそういう実践はあると思う。
 
そうマイケル・サンデルの白熱教室はそうかもしれない。
ただし,それは自分の振るまいの問題,あるいは道徳の問題として,「誠実に生きること」,「他人の利益も配慮すること」ということではない。
「社会に対して,どう訴えかけるのか」というきわめて実践的な問題であって,そのために例えば政治の仕組みを知らないといけないという形になるのだ。
 
これは,まさにホッブスの『リバイアサン』(読んでないけど)や,ルソーの『社会契約説』(読んでないけど)などにもつながる。
 
でも,おそらく教科書を教えることで精一杯なんだろうな。
それによって,悪い言い方をすれば,すぐに忘れる知識を身につけることに腐心し,社会の問題もまた自分の至らなさとあきらめる子ども,お上がいうことだから恭しく受け取るという子どもが生産されるのかな。
 
そうならないことを願い,自分も実践しよう。

 

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