体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

漆山晶博氏による解題「澤豊治実践」 『体育科教育』2019年5月号に寄せて

こんにちは。石田智巳です。

 

今日,大学に『体育科教育』2019年5月号が届いていました。

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そこには「『平成』を彩った優れた実践を振り返る」という特集があり,そこに私も2本の実践(実践記録)を推薦しました。

その2本とは,制野俊弘さんの「こんにちは! パウエル君」という実践と,澤豊治さんの「『どついたろか』のサッカーから『おら,ようきばったの』のサッカーへ」です。

そのうち,後者については『たのしい体育・スポーツ』2013年6月号に,当時同僚であった漆山晶博さんが,そのときの様子や背景,実践の意味づけを行っています。

非常に重要な指摘をしていると思いますので,澤,漆山両氏の了解を得たうえで,漆山氏の文章を載せておきます。

なお,澤豊治さんの名前は,さわとよはるさんです。

 

「どついたろか」のサッカーから「おら、ようきばったの」のサッカーへ

                                                           (澤豊治実践1990)

                                 漆山晶博 

1 実践の紹介

(1)はじめに

 「どついたろか」という表現は、相手を威嚇するときにつかう関西地方の方言だ。しかし、本実践に登場する生徒たちは、こんな可愛い脅し文句は使わなかった。澤がタイトル冒頭の言い回しを変えた理由は容易に察しがつく。彼らがすごみをきかす言葉は独特であり、一般的には理解されないからだ。「本当にやられるかもしれない…」という恐怖感を周囲に与えるには十分だった。たかだか15年ほどを生きた少年たち。凄まじい文化環境の中で身にまとった「虚勢」という鎧。「他者理解」という言葉が空々しいほど深層的に分断された地域性。言葉で伝えるのはきっと不可能だろう。澤をはじめ当時の教職員は、このような「生活」に鋭く切り込もうと常に前を向いていた。

 実践を紹介するにあたり、このような書き出しをなぜしたか。それは「教育実践」の可能性を伝えたいからだ。校内暴力全盛期の23年前と今日的な課題を抱える「いま」とは違うが、困難な状況に立ち向かう「知性」を継承・発展させたいからだ。

(2)「どついたろか」のサッカー

 中学3年の3学期、男女別習。チームは4チーム。近隣の有職・無職少年にも名の売れた超大物のワルG率いる【Aチーム】、仲良しグループの【B・Cチーム】、どのグループにも入れない寄せ集めの【Dチーム】だ。澤はまず、4チーム2回ずつのリーグ戦を行う。Aチームはぶっちぎりの全勝街道を進んだ。しかし、それもそのはず…。相手選手が接近するなり、「ブチ殺すぞ!」の怒声が飛び、相手ボールになると、「蹴ったれ!足腰立たんようにいてもうたれ!」の野次が飛ぶ。Aチームとの対戦時には、どの子も自分に火の粉が降りかからないように萎縮したプレーに終始する。

 ところが、B・Cチームが対戦するときはゲームの雰囲気がガラリと変わる。実に楽しそうに各々が持つ技能を駆使し、勝敗を競い合うのだ。その様子を見たAチームNo.2Tが「あいつらワシらとやるとき本気でやっとらへん…」とつぶやく。事件は、次のAvsBのゲームで起きた。

 棒立ちの相手ディフェンスによってできあがった花道を進み、Tがドリブルシュートを決めた。その瞬間、まずはゴールキーパーの胸ぐらをつかんで顔面を殴打。「なんで本気で取りにこんのじゃ!ワシらなめとるやろ!」。Aチームメンバーは一気に爆発。次々と相手に襲いかかりグラウンドは修羅場と化した。

(3)幻の18条

 何とかその混乱を収拾させた澤は、Aチームメンバーを相談室に集める。そこで、彼らの「あいつらはワシらのことをカスやと思とる。だから本気でボールを取りにきよらへん。ワシらはあいつら(BvsC)みたいに試合がしたいだけや。」との本音を引き出す。

 次時からの2時間は教室での授業。まずは1時間目。「なぜTがあんなに怒ったのか?」を澤の補足も交えながらAチームメンバーに語らせ明らかにする。次に「なぜAチームとの対戦を嫌がるのか?」と問い、「バカになんかしてない。怖いだけや。」との本音を引き出す。さらに、徹底的に「殴った者の気持ち」「殴られた者の気持ち」を吐露させ、「BvsCの試合はなぜ楽しく見えるのか」と考えさせたのだ。

 2時間目。ここで文化学習だ。中心は「レフェリー制度の成り立ちとサッカーのルールが17条しかない理由」。さらに、Aグループが憧れる仁義の世界と絡めて「非紳士的行為が反則になる理由」。澤は、これらを知識として学習させるのではなく、試しのリーグ戦の様子や前時の話し合いで出た意見をできるだけ多く採り入れて話している。そして最後に、「実はサッカーのルールブックには載っていないもうひとつのルールがある。」「その幻の18条とは『常識』だ」と語るのだった。

(4)「おら、ようきばったの」のサッカー

 この後の授業は、2チームが試合、残りの2チームが試合を見ながらみんなで審判。そして、チームでの反省練習(自チーム内の自己分析および他チームからのアドバイスを元に)というスタイルで進められた。この結果、Aチームは負けるようになるが、ゲーム内容は見違えるようになっていったのだ。

 澤はこの後、「卒業記念球技大会」を企画する。実行委員長はG。それを支えるメンバーは生徒会長を務めたNや各クラスのリーダーたちだった。そして、大会当日。どの試合も白熱した好ゲームが展開された。しかし、Gのチームは1回戦で惜敗するのだ。以前の彼らなら、不穏な空気を残してグラウンドから立ち去るのがオチだが、観戦した先生たちも驚愕する出来事が起こった。グラウンド中央に整列したGたちが、相手チームの一人ひとり頭を多少手荒ではあるが、「おら、ようきばったのぅ」とポンポン叩きながら、その頑張りを讃えていたのだった。

 

2 実践の背景

(1)24年前の記憶

 本実践の舞台は、1990年、当時県内有数の教育困難校として知られたH中学校である。大学を卒業して、その前年に臨時講師として赴任していた私は、当時のことを一生忘れない。今まで生きて経験的に身につけたすべてを全否定されるような錯覚に陥ったあの日々。想像を絶する子どもたちの荒れが校内を覆い尽くしていた。

 そこに私より2年前に赴任していた同僚体育教師が澤だった。体育会系ズッポリの学生時代を送り、管理主義の先鋭として他県で新任時代を過ごした澤は、校内の実践的リーダーであったN氏の影響を受け生まれ変わっていた。N氏の存在なしに、今の澤や私は存在しないと言っても過言ではない。民間教育研究サークルの大御所が集まるH中学校は、まさに民主教育の砦であったのだ。

(2)民主教育の歴史

 そのN氏とともに組合運動を牽引してこられたのが、当時は退職されていたK氏だ。K氏は澤の中学校時代の恩師であり、サッカー部の顧問であった。「幻の18条とは常識である」という言葉は、実はK氏の言葉なのだ。サッカーをこよなく愛したK氏は、教え子たちに「技術」だけでなく「文化」の世界を見せていたのだ。実践の山場となる教室での2時間は、このような背景なしには決して生まれなかった。それは澤のパーソナリティで成立させたものではなく、滋賀に脈々と流れる民主教育の歴史の一コマとして位置づくと言えるだろう。

(3)H中学校の集団づくりと澤の仕事ぶり

 「傍若無人に振る舞った生徒たちももうすぐ卒業…。これ以上、なるべくコトを起こしたくない。」こう考えても誰にも責められない。当時の教職員の疲労はすでにピークを越えていたからだ。この状況の中、あえて澤は「トラブルが起きる」グルーピングと試しのゲームを行う。グラウンドでの修羅場もある意味想定内だったはずだ。澤は「Tの爆発」を待っていたのであり、それが「萎縮した生徒の本音」を引きずり出すと考えたのだ。

 実は、このような本音のぶつかり合いは、とりわけ行事の際の集団づくりの手法としてH中学校では実践されていた。彼らもひと山ふた山は越えてきていたのである。にもかかわらず、依然として残存する「壁」。課題の根深さがここに表れている。このとき澤は30歳。すでに生徒指導面では教職員の実践的リーダーとなっており、ワルたちとの「指導-被指導」の関係も成立させていた。実践を語る上でこのような背景も見逃せないだろう。

 

3 実践の意義と特徴

(1)「集団・仲間」にこだわった実践

 「体育は何を教える教科なのか?」。当時の澤は、体育(教科)の存立意義を「集団づくり」に見出そうとしていた。生活指導的手法が色濃く感じ取られるのはその影響だろう。実践中の生徒たちの「仲間不信→異質理解→異質協同」という変容は、ある意味、澤が描いた理想図であった。究極の状況の中で、「目の前の子どもたちに何ができるのか?」と自問自答した結論は、「刹那的にしか描けない将来vsできたら関わりたくない→人間捨てたもんちゃうなぁ…」。せめて、こんな実感だけは持たせてやりたい。澤の情熱的な願いと奮闘する姿がリアルに伝わってくる。「技術指導と集団づくりの統一」という観点からは建設的批判もあっただろうが、至高の感動と余韻に浸らせてくれる不世出の実践であることは間違いない。

(2)「生活・文化」をつなげた実践

 今でさえ「生活と文化の接点」という言葉は、「21世紀型生活体育」を語る上で注目されるようになったが、当時は、同志会が「教科内容研究」に本格的に乗り出そうとした時期であった。澤もまた教科内容としての「スポーツ文化」については、深い理解には至ってはいなかったはずだ。しかしながら、荒廃した彼らの「生活」を、そして不平等を甘んじて受け入れる彼らの「生活」を変革する鍵が「文化」にあることを、澤は直感的に見抜いていた。

 マスフットボールを起源とする粗暴なスポーツであったサッカーが、なぜ紳士のスポーツと言われ、世界中の人々に愛されるようになったのか。サッカー文化の底流に流れる「対等・平等」という価値、そして「公正・公平」という精神。胡散臭い「常識」という言葉がまったく別の言葉のような意味を持ったのだ。教室1時間目の本音を吐露する話し合いと2時間目の「文化学習」が見事にマッチングしている。ここに本実践の最大の特徴があると言えるだろう。

(3)「対話」を重視した実践

 澤の対話力は卓越している。まずは「生徒との対話」。グラウンドでの混乱後の相談室でのAチームメンバーとの対話の詳細を紹介できなかったことは残念で仕方ない。そして、ここに付け加えるなら「生徒同士の対話」。「言葉尻によっては何をされるかわからない」という状況の中で、生徒たちは自分の思いをぶつけ合っている。澤への絶大なる信頼感なくしてはあり得ないだろう。次に「文化との対話」だ。K氏の影響もあり、澤はサッカー文化を実によく理解している。サッカー文化を継承・発展させてきた先人たちの喜びや苦悩を自分に重ね合わせているとも言える。この深みが「生徒と文化の対話」の深まりとなり、生徒の変容を生み出すことにつながったのだ。

(4)「保護者・地域」を見すえた実践

 澤は多くを語っていないが、本実践をライブ感覚で知っている私には、もうひとつ見逃せない特徴がある。それは、澤の視野は確実に「地域・保護者」に広がっている点だ。まとめの球技大会が進行する中、調理室ではPTAの役員さんたちが、昼食にうどんの炊き出しをされていた。その他にも参観に来ておられる保護者もいる。まさに公開授業だ。地域で迷惑をかけ続けた少年たちが仲間とともに必死にボールを追いかけている。過去のトラブルを洗い流すようなフェアプレイが展開される。子どもたちの「学び」をしっかりと伝えているのだ。保護者・地域を丸ごと巻き込むことで、彼らの卒業後の「生きる」につなげる。これもまた、澤の特徴的な実践スタイルである。

 

4 実践の影響

(1)困難な状況に立ちすくむ教師を励ます

 同志会で学び始めた頃、難解な言葉が並ぶ同志会の研究動向や全国大会で報告されるスマートな実践を私たちは疑っていた。目の前の子どもたちの生半可でない現実をいかに変えるのか。「必ず俺らの実践に共感が寄せられる時が来る」と2人で語り合った頃が懐かしい。思い返せば、会の研究史や全体像をまったく理解していなかったと赤面するが、「なんで跳び箱とばなあかんのじゃい!そんなもんワシらに関係ないやんけ!」という体育の授業の意味を問う生徒の叫びに対して、真摯に体育教師として立ち向かおうとしていたことは確かだった。いかなる困難な状況においても、子どもが変わりゆく事実を示した澤実践は、今もなお多くの教師を励ましているに違いない。

(2)教科内容研究にとっての刺激

 90年代初頭は、80年代に「技術指導の系統性研究」から「学習集団研究」に深まりを見せたことを土台に、「教科内容研究を進めよう」と提唱され始めた時期である。つまり、「スポーツの競争や勝敗の価値や意味」「スポーツのルールの変遷や変革」を教科内容として位置づける具体的な実践イメージが模索され始めた頃だと言える。とりわけ、教材を「文化的総合性」を持つものとするためには、スポーツ文化研究が欠かせないが、澤は目の前の必要に迫られながら、直感的にそれらの作業をこなしていた。澤実践が起爆剤となり、より豊かで実践的な教科内容研究が進んだと言っても過言ではないだろう。

(3)教育課程研究への影響

 同志会は、90年代終わりに「教育課程自主編成プロジェクト」を設立する。運動文化論に立脚し、現場教師と教育実践を励ます教育課程の姿を明らかにしようとしたのだ。澤はこのメンバーとして活躍した。「ともにうまくなる」「ともに楽しみ競い合う」「ともに意味を問い直す」という3つの課題領域(3とも)が整理される背景には、澤実践がひとつの中学校体育の典型実践として取り上げられ、その美点と弱点が参考にされたのだろうと私は理解している。

         (滋賀・東近江市立朝桜中学校・漆山晶博・うるしやまあきひろ)

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